かつての住まい


 いまの住まいは西川にしかわ香澄さんが手配してくれた。

 西川家は資産家で、不動産関係の会社も経営している。そこで管理している物件らしい。敷金礼金免除の格安家賃はかなりありがたい。

 その恩返しというわけで、たまに要請を受けて出動したりしている。


 子守と家事手伝いである。


 通いなれた道を歩いて、あるマンションに入る。大学四年間暮らしていた場所だ。あのときふたりで住んでいた部屋に、今では香澄さん一家が住んでいる。


 オートロックである。寝ているときに呼び出しをかけると起きるからと、合い鍵をもらっていた。エントランスを突破しエレベーターに乗っている間に香澄さんにメッセージを送る。

 俺が目的の十階につくころには、遠隔操作で開錠されているという寸法である。


 音を立てないようにそっと扉を開けると、すっかり違う家のようになった玄関が広がる。

 廊下の最奥のドアは大抵いつも開いていて、耳聡く音をひろった白い塊が飛び出てくる。気を遣って足音を立てないのだから、彼は優秀な子守だ。


 おはよう、と言ったら控えめにわふっと言った。まっしろいふわふわの毛皮に手を入れる。


 サモエドのサムだ。


 命名は香澄さんらしい。

 よく人を見る犬で、最初は警戒していたけれど香澄さんと親しくしている様子を確認すると、すぐに手のひらを返した。

 靴を脱いでサムと一緒にリビングを向かうと、きれいに支度した香澄さんがいた。


「ごめんね急に」

「いえ。暇してました」


 香澄さんが視線で示した先には、タオルケットの下で仰向けに寝ている女王様がいる。


 西川一香いちか。三歳の長女である。


「いま束の間のお昼寝」


 足音をたてないようにこそこそと出ていく香澄さんの後ろを、やはり慎重についていく。


「一時間くらいかな? 寝てる間に帰れたら御の字。お願いね」


 うなずいて、最後まで手を離さずゆっくり扉を閉め、音を立てないように鍵を締める。

 振り返るとやっぱりサムがついてきていた。


「静かにな」


 廊下のきしむ音にさえ気を使いながら、リビングへ戻った。


 香澄さんが結婚したのは、俺が就職してから一年と少しあとだったと思う。


 結婚式に呼ばれた俺は旦那さんとも会った。

 優しそうでなんとなくふわふわした雰囲気の細身の男性で、ともすれば頼りないように見えたのだが、香澄さんがいた大企業の同僚だと言うのだから、優秀な人なのだろう。


 なにより、頼りがいのある香澄さんとお似合いのように見えた。


 妊娠をきっかけに当時の会社を辞め、出産後に西川の会社に復帰した。

 しばらくは夫婦二人と、祖父母となった西川父母で一香を育てていたようだが、半年前に旦那さんの海外赴任が決定、以来香澄さんは西川父母の力を借りながら、ひとりで一香を育てている。


 そこに俺が帰って来たのだ。


 帰省の予定を送った三秒後、香澄さんは俺に取り調べを始めた。

 住む場所は決まっているのか、こちらでの予定はあるのか、どれくらい居るのか。


 俺はそれぞれに、未定、未定、未定、と答えた。


 そのときの勢いにしては少し間を開けた一分後、香澄さんは長文を送って来た。


『住むところはこっちで用意できるわよ、いくつか候補を送るわね。格安にしとく。その代わりと言ってはなんだけど、ちょっとお手伝いしない? さっちゃん子ども好き? つまりね……』


 西川父母も嫌とは言わないが疲れがでていて、ちょうど短時間のシッターを探していたのだという。とは言え大事な娘のことだし、自宅に入れるのだから適当なところには頼みたくない。

 そこに俺である。

 承諾したら分厚い育児マニュアルが送られてきた。確かに、幼児の世話などしたことがない。


 生まれたと報告を受けたきりだった俺は、帰ってきて香澄さんの家を訪ねて、絶句した。


 立っている。歩いている。しゃべる。


 数年前の写真の中では、横たわる得体の知れないぷにぷにだった赤子は、すっかり手足が伸びて人間然としていた。

 こちらはサムと違い、俺の様子も香澄さんの対応も見ることはなく、開口一番言った。


 おじさま、お名前は?


 リビングのソファに座る。

 短時間シッターは、香澄さんが仕事でどうしても外出しなければならないときに呼ばれることが多い。

 リモート勤務と保育園と祖父母保育を活用しているなかの狭間を埋める。あるいは、買い物や料理に呼ばれる。


 だからこんな風に一香が寝ていれば、物音を立てないように、それでいて彼女に危険が及ばないように、見ているだけだ。


 隣にサムが飛び乗って来た。やることがないときは、きれいに洗われていつもふわふわの真っ白な毛皮を堪能するに限る。

 頭をなでて、背中をなでて、ひっくり返った彼の腹に顔をうずめて、しばらくして顔を上げたら、一香が目の前に仁王立ちしていた。


「……起きたのか」

「起きちゃいけなかった?」

「いや、そのようなことはなく……」

「お母さんは?」

「一時間くらいで帰るよ」

「ふうん、それでさっちゃんが来たのね」


 左様でございます、と言いたいくらいの貫禄だった。


 西川家の血族らしい美貌はすでにその顔に顕現していて、話し方は香澄さんのそれ。

 誰に似たのかと香澄さんが言う、明らかに香澄さんの系譜の上にある強気な性格は、運命のように生まれつきで。


 美しい透過の色彩も、そこにある。


「ねえ、さっちゃん」

 香澄さんが呼ぶから、俺の呼び方も刷り込まれたみたいにそうなった。


 起床に喜んだサムが彼女にまとわりつく。一香は特に反応を返さず、当然のようにサムの背中をなでて宥めている。

 犬の扱い方がすでに玄人だ。動物と暮らしたことのない俺よりずっと上手い。


「こっちに来て」


 腕をひっぱられ、リビングの一角に引き込まれる。

 クッションマットが敷かれた中央には先ほどまで一香が寝ていた布団があり、隅には彼女のおもちゃが寄せられている。


 そのなかから彼女が掴んだのは猫のぬいぐるみだ。それを俺に押し付け、自身は犬のぬいぐるみを取った。


 はじまる。


「きょうはどうしましたか?」


 最近の彼女のブームは人形をつかった『おいしゃさんごっこ』だ。将来は医者になると言う一香が医者役。相手が患者役。

 そろそろ症状のレパートリーも尽きてきた。あんまり同じことを言うと怒るのだ。


 香澄さんに似た、ひいては奴の面影がある――その顔を真っ赤にして。


 しばらくそうして、駄目出しを食らいながらも遊んでいた。やがて飽きたのか、唐突にぬいぐるみを床に座らせて、ピアノに寄って行った。


 奴が弾いていた白いピアノは、相変わらずリビングに置いてある。

 黒いのは黒鍵だけで、それ以外は椅子もペダルもすべて白。装飾はなく、断ち切ったような直線のラインは現代的で、この部屋によく調和していた。


 埃のひとつもない。綺麗に整えられたピアノ。大事にされている。


 香澄さんと一香が、ふたりでよく弾いているのだという。


 ピアノ椅子に座りたがる一香を抱き上げて乗せる。蓋を開けてやれば彼女がそのまま一音を弾いて、ぽーんと心地よい音が鳴った。


「さっちゃんはピアノ、弾けるの?」

「弾けないんだ。全然」

「ふうん」

「だから、一香が聞かせてくれるか?」

「いいわよ」


 得意げに笑って、ピアノに向き合った。

 丸くて大きな頭が前後に振れ、その両手が旋律を生み出す。何を弾いているかはわからない。きっとピアノ教室で習った曲なのだろう。


 一香のそれは一生懸命で綺麗な音だ。

 目を瞑って、耳だけで聴く。


 奴の音とは違う、と思った。


 なのに、奴の音がどんな響きだったのか、もう思い出せない。

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