第1章 坂田史宏①

再会①


 失職した。


 新卒から五年勤めた会社が倒産したのだ。しばらく自堕落に暮らしたあと、帰ろうと思った。


 帰ろう、なんて。


 生まれた土地はきっと『地元』と呼んでしかるべき場所なのだろうが、すでに実家はない。母は死に、高校に上がるときに蒸発した父親は結局他県にいた。それほど良い思い出もない。


 ただひとつ、柔らかく光を放つ五年を除いて。


 住んでいた部屋を解約して地元というものに戻ってきた。といっても特にやることがあるわけではない。月に何度かハローワークに通って、求人情報をみて。


 商店街を歩いている。香澄かすみさんに用意してもらった部屋は立地がよく、食事を買うのに困らない。七月の夜は陽がない分じめじめとしていて、歩いただけで汗が滲んでくる。

 手近なコンビニにでも寄って、さっさと帰ろう。


 前方から男が歩いてくるのが視界の端に見えた。スマホからふと顔を上げて、その体格になんとなく既視感を覚えて顔に視線を向けた。


「えっ」

 ちょうどすれ違うときに声が出て、男と目が合う。


「えっ」

 向こうも同じ反応を返す。お互いに、ここにいるはずがないと思っていた。


 豊田とよただった。


「えっ、坂田さかた? なんでこんなとこにいんの」

「いや、お前もなんでここにいるんだ」

「え、仕事は?」

「倒産して無職。そっちは?」

「きょうは休み」


 高校時代の友人である豊田は、もともとはここに住んでいた。実家だっていまもここにあるはずだ。一応。


 豊田は暴力的な父から幼い妹を守るため、高校卒業と同時に出奔した。いまは数県離れたところに居を構えていて、養育権を勝ち取って立派に妹の涼花すずかを育てている――はずだ。


 両親から距離をとることで妹を守ってきた豊田が、ここにいて、Tシャツと短パンだけの軽装で歩いていると思わなかった。


 豊田も、大学を卒業して他県で働いているはずの俺が、ここにいるとは思わなかっただろう。そういえばなにも報告していなかった。

 窺うように豊田が言う。


「……なにしに歩いてる?」

「メシ」

「よしどっか入ろうぜ」


 連れだって適当な居酒屋に入った。


 高校卒業とともに出奔した豊田の事情もありしばらく会っていなかったが、俺が大学を卒業するころに改めて会うことができた。

 以来連絡を取り続け、いまでは数か月に一度くらいは会っている。


 しかしお互い、ここに来るなんて話していなかった。


 ビールと頼んだ品がいくつか来てから、さて、とでも言うように豊田がこちらを見る。


「倒産って言った?」


 うなずいてから答えた。


「文字通り。まあ小さい会社だったから、正直いつ潰れてもおかしくなかったな。失業手当が出る期間はこっちで過ごそうと思って。そっちは? なんでここに」

「ああ、まあ……」


 豊田はビールを一口飲む。ジョッキを置いてから、斜め上に目を動かしながら話し出した。


「涼花が、――実家、……まあ、実家だよな。に、行くって言ってて」


 ここを出たあと、数年に渡って涼花の養育権を巡って実の両親と係争をしていたはずだ。実父の暴力が決め手となって、豊田が勝ったはず。

 そんな実家と、再度関係を持って問題ないのだろうか。


「大丈夫なのか? 向こうが涼花になんかしたり」

「その辺は大丈夫。いま父親が入院しててさ」

「おお」


 どう反応していいか分からず、微妙な感嘆詞が出た。俺が実父の入院を知らされたら、きっと「ふうん」で終わるだろう。


「その隙に、母親が涼花に会いたいって言って。涼花もそれを了承して」


 豊田がやっとこちらを見た。その表情に浮かぶのは、倦怠感のような。


「で、おれはとりあえずの偵察。実家がいまどんなもんか知らんし、実際父親が入院してるかどうかも確かめに。涼花も来るのは来週だな。夏休みなんだよ。ちょっと長めに置いとく、かなあ……まあ状況によって。坂田はいつまでここにいんの」

「失業手当は半年ないくらいだな。使いきるつもりはないけど、急いで職を探すつもりもない」

「ほほーん」


 豊田がにやける。面倒事の予感がする。いや、暇だが。


「なにかあったら、よろしく頼むわ」

「……なにもないことを祈っとく」


 俺たちが高校生のころに小学生だった涼花は、いまでは随分と成長して高校二年生だ。思春期で反抗期。

 おそらくあんまり、部外者が顔を突っ込んでいい時期ではない。涼花がそれなりに俺に懐いてくれていると言っても。


「涼花は? 元気か」

「体は健康だよ。学校は相変わらず、たまに無理になるっぽい」


 涼花は俺や豊田以外の男が苦手だ。

 それもあって日常生活でストレスを溜め込み、数年前までは度々、体調を崩しては学校を休んでいたらしい。


「たまに、になって良かったよ」

「ね。高校入ってからは調子よくて。おれよりずっと頭いいぜ」

「ああ、そういえばあの子は? まだいろいろやってくれてんの」


 単純に、近況を聞きたかっただけなのだが。

 豊田はじろりをこちらを見た。


 あの子、というのは、俺も会ったことのない、涼花と同じ学校に通う男子生徒のことだ。

 中学のときに一緒になって、そのときから涼花を訪問したり教室で話しかけたりしてくれている、らしい。欠席が減ったのは彼のおかげもあるとか。


「なんかあったのか」

「なんもない」


 なんもないなら睨まないでほしい。


「あいつ確実にさあ、涼花のこと好きなんだよなあ」


 伝聞だけでも容易に想像できる。涼花の高校は進学校だ。同じ中学だった彼は涼花と同じ高校に行くために相当の努力をしたらしい。

 好きでもなければそんなことしないだろう。


 それを豊田が好ましく思っていないことも知っている。

 彼が問題なのではなく、涼花に近づく男はすべて気に食わないだけのことだ。


 ビールがうまい。豊田兄妹は、健全に微笑ましかった。

 あの旅路の果てにあるのがこんな幸福なら、報われたと思っていいのだろう。


「妹離れ、頑張れよおにいちゃん」


 豊田は頑として了承しなかった。

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