君が死にたかった日に、僕は君を買うことにした 後日譚
成東志樹
エピローグ
さよならのその先
――
夢を見ていた。それははっきりと分かるのに、どんな内容だったかは片鱗すら思い出せない。目を閉じたまま布団のなかで数秒考えても、無駄な足掻きだ。
もう思い出せない。手が届かない。ただ、奴がいたはずだった。確かに手の届く距離にいたはずだった。
そういう、感覚があったから。
寝ぐせの前髪を押さえながらキッチンに立つ。
コーヒー豆を挽く。これまで、朝は忙しくてそんな優雅なことはしていられなかった。今は違う。手動で豆を挽いて、ドリップする。時間は腐るほどある。そう、腐るほどあるのだ。
だから思考も腐敗していく。
これまで考えずにいたことを無意識に考えてしまう。
六枚切りの食パン二枚をトースターに突っ込み、その間にフライパンで目玉焼きを作る。塩と胡椒。胡椒は粒を買っている。
かつて口にしていたものよりは幾分劣るが、すでにひかれたものと比べてまずくはない。音を立てるフライパンに水をいれ、素早く蓋を閉める。
皿にトーストと、その上に目玉焼きをのせる。ブラックコーヒーに胃炎防止の牛乳を少しだけ入れ、それぞれを持って座卓に向かった。コーヒーをすすりながらテレビをつける。
熱心に見るわけじゃない。ラジオのように、BGM感覚で聞いているだけだ。
窓越しに空を見る。晴れていた。
(洗濯物は外に干すか)
考えることといえばその程度で、深い思考はもう何日かしていない。
トーストをひとくち齧り、咀嚼する間にすることはない。
ぼうっと壁を見つめる。白い壁だ。安っぽい壁紙が朝日を受けて一人前に光っている。白、しろ、と頭のなかで反復して。思ったのは。
奴のピアノも、白だったな。
それだけでもうだめだ。
フラッシュバックのように映像や画像が脳裏でスライドショーを始める。お決まりのいくつもの場面がすらすらと出てくる。そのくせ、すべてがぼやけていて、どれも明確な輪郭を持たない。背景に溶けて奴の顔は見えない。なのに分かる。
笑っている。
心の奥底で奴が笑っている。
永遠に固定されてそこから出てこないくせに、遠ざかるばかりで近づくことはないくせに、ぼやけて輪郭さえあいまいなくせに、どこかへ消えてしまうことはない。
なに一つ忘れたくなかった。そんなことはできないと分かっていた。叶うならすべてを忘れてしまいたかった。それも無理だと分かっていた。
生活のすべてに奴の色が残っている。
コーヒーも、食事も、見える景色も、考え方も。
なのに。
奴の透過の目さえ、もう思い出せない。
あんなに美しかった。あんなに優しかった。
人生そのものみたいな愛を貰っておいて、その結末がこれなのか。
そういうことを、見つめ続けた二週間だった。
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