『ランランラン・エスケープ』2
しかし、明くる日。
私は、また知らない場所で目を覚ましたのである。
身体が、震える。
寒いのももちろんある――部屋にあるカレンダーは、年を越して二月を示していた――が、この震えは、恐怖故だ。
まただ、と思う。
昨日まで私は男子高校生だったのに、今日の私は『マツダエミカ』になっている。
マツダエミカは、今年で三十歳を迎える会社員だ。
この部屋は、同棲していた彼氏と別れたあとに借りた、賃貸のワンルームである。
私は慌てて枕元のスマホを手に取り、夢の内容を覚えている限り、書き連ねていく。
男子高校生だったときの『私』の名前は、既に忘れてしまっていた。確か、成績次第でギターを買ってもらえるからと、勉強を頑張っていた気がする。帰宅部で、なにか賞を取ったりはしていない。高校生であることは確かなはずだが、それが公立か私立かはわからない。『私』は本当にどこにでもいる、平々凡々な高校生だった。今の私が覚えている限りで調べても、該当する人物が浮かび上がってくることはないだろう。
薄々気づいてはいたが、これは、ただの夢なんかじゃない。
恐らく、いや、確実に、私は他人の人生を渡り歩いている。
気がついたら、逃げるように誰かの人生に侵入しているのだ。
それなら、私が居なくなった以前の『私』の身体はどうなったのだろう。
抜け殻になったのか、それとも、他の誰かが代わりに入ったのか。
それなら、このマツダエミカに元々在っただろう人格は、どうなった? 私が来たことによって、消し潰されてしまったのか?
これまで何年生きてきたのかさえ不確かだが、その人生の中で、もぬけの殻になった人間の話なんて聞いたことは一度もない。たまたま『私』の人生がそういった情報を遮断していた? 興味関心がないから、仮に目に入っていたとしても、見えないことにしていた?
ああ、わからない、わからない、わからない。
考えれば考えるほど、自分の頭がおかしいだけなんじゃないかと思ってしまう。
こういうとき、自己診断だけで完結させるのは良くない。今の私に必要なのは、第三者からの客観的な意見だ。病院に行って、頭がおかしいと診断されたら、そういうことなのだ。それ以上もそれ以下もない。
私が異常なだけであり。
異常に私が巻き込まれたわけではない。
そう断言してもらいたかった。
しかし、現実は非情である。
即座に、会社へ体調不良を理由に欠勤の連絡をし、近隣の精神科や心療内科に片っ端から診察予約の為に電話をしたのだが。全て、当日診察は断られてしまった。
予約は連日満員で、今から予約したとして、診察は約一ヶ月後。
そんな返答ばかりに、五件目に電話する頃には、私はほとほと疲れ切っていた。
私はただ、この異常と思しき事態を異常と認めてほしいだけなのに。
涙目になりながら、一旦休憩の為に目を瞑る。
仮眠を取って、次に目が覚めたら、もう少し範囲を広げて、病院を探してみよう。
とにもかくにも、この状況を打破し、私は本当の私を取り戻さなければならない。
その為には今の私から、逃げるしかない。
そんなことを考えながら、私の意識は微睡みに溶けていく。
何度も、何度も、同じことを繰り返した。
気づけば、誰かの人生を我が物顔で乗っ取っていて。
気づけば、また他の誰かの身体に乗り移っている。
自分では、どうすることもできない。
私は、この不可思議な状況に、身を任せるほかない。
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