『ランランラン・エスケープ』(人生から逃げ続ける「私」の話)

『ランランラン・エスケープ』1

 人間、生きていれば一度くらいは『逃げ出したい』と思うことはあるだろう。

 この場合の『逃げ出したい』とは、現在進行形で続いている自身の人生を指す。

 そうやって逃避し、人は『もしも』を考えるのだ。

 もしも、こんな田舎じゃなくて都会に生まれていたら。

 もしも、右利きでなく左利きだったら。

 もしも、なにかしらの才能を開花させていたら。

 これは私の持論に過ぎないが、大なり小なり、誰しもこういった願望は持っているように思う。ああ、論文調にするなら『思う』って使ったら駄目なんだっけ。『思う』じゃなくて、『考える』だ。

 さておき。

 そんな起こるはずもないできごとについて考えながら、その日も私はいつも通り、電車に揺られて通学していた。夏真っ盛り。窓の外では、ぎらついた太陽光がアスファルトを焼いている。

 地元の高校を出て、県外の大学に進学し、一人暮らしをさせてもらっている。

 その事実だけを羅列すれば、きっと私は恵まれているのだろう。

 家族仲は悪くないが、しかしこれは、私が一線を引いているが故に仲違いしようがないだけとも言える。両親は至極真っ当な人間だが、どういうわけか昔から、根本的に私と価値観が合わないのだ。それは美的センスであり、生活リズムであり、言葉選びであり。自分は本当にこの二人から生まれ育てられた人間なのか、疑問に思うことも多々あったくらいである。

 実家を出て、ようやくその息苦しさから、少しだけ解放された。

 けれど、家族というものは永遠の縛り合いだ。家を出た程度で疎遠にはならない。学校を卒業したら大半の子とは疎遠になるというのに、なんて嘆息したくもなる。そうかと思えば、両親の離婚によって呆気なく解散したりも有り得るわけで、人間の群れというのは、なんとも不思議なものである。

 友達、家族、学校、会社。

 どこにも属さないなんてことはない。

 それは流されるようにして、或いは、自分から選び取って、どこかしらに所属するのだ。

 それは嫌だなあ、なんてモラトリアム全開なことを考えながら、眠りにつき。

 明くる日の朝。

 私は、全く知らない場所で目を覚ました。

 実家の自室ではない。下宿先のアパートでもない。本当に、全くもって存じ上げない部屋に、私は居た。

 想定外のできごとに、思わず身震いする。

 いや、恐怖に身体が震えているのではない。

 理由はもっと現実的で、ただ寒くて、身体が震えたのだ。

 夏なのにどうして、と思いながら、部屋の中を見回す。

 冷房を効かせ過ぎなんじゃないか。とにかくリモコンを探し出して、設定温度を変えないと。

 そう思ってぐるりと見知らぬ部屋に視線を滑らせる。

 すると、壁に掛けられたカレンダーがあることに気がついた。

 一ヶ月ごとにめくるタイプのカレンダー。

 そこには、私の記憶より遥か先。

 十一月を示していた。

 西暦は記憶の通りだから、つまり、私はここ三ヶ月ほどの記憶を失っていることになる。

 記憶喪失? 誘拐? 人体実験?

 咄嗟に思いつくのはそれくらいだが、どれも現実味がない。平々凡々な人生を送ってきた私に、そんなことが起こり得るのだろうか。

「トモキー、早く起きなー。朝ご飯、冷めちゃうよー」

 混乱する私の耳に、聞き覚えのない名前を呼ぶ声が届いた。

 知らない名前なのに、どういうわけか、それが私のことであると、頭が理解している。

 そうだ、今日は学校で、数学の小テストがあるのだ。数学は苦手で、万年赤点だ。だけど、今年一年、数学で赤点を取らなかったら、父さんがギターを買ってくれると約束してくれたのだから、頑張らないと――いや、いやいやいや、待て、なんだこの記憶は。

 私はもう大学生で、数学とは無縁の文系で、ギターどころか、楽器の類には全く興味を持たずに生きてきたはずじゃないか。

 私は大学で……大学で……一体なにを、専攻していたのだったか。

 記憶を辿るように首を捻るが、つい昨日まで勉強していたはずの内容が、全く思い出せない。それどころか、同じゼミの子の名前も顔も、仲の良い先生や事務の職員さん――なにより、大学名さえ思い出せなかった。苦労して入った大学なのに……いや、偏差値相応のところだったか?

 わからない。

 わからない。

 わからない。

 昨日までの日常が、夢でもみていたかのように不鮮明で不確かだ。

 その代わり、この部屋で目を覚ました『私』のことなら、自分のことのように詳しい。いや、実際に自分自身のことなのだから、詳しいもなにもないのだろうけれど。

 そうだ、私の名前はトモキだ。

 コデラトモキ。

 近所の高校に通う、ありふれた男子高校生の一人であり。

 ここは、私が生まれてから十六年間住んでいる家じゃないか。

「トモキー? 起きてんのー?」

 階下から私を呼ぶ母親の声がして、私は、

「起きたよ、すぐ行くー」

と返事をして、布団から飛び出した。

 そうしてから、そういえば昨日、友達と喧嘩をしてしまい、学校で会うのが気まずいんだよなあ、なんて寝ぼけた頭で考えた。



 登校中、授業中、休み時間、下校中。そして、帰宅してから、ずっと。

 永遠とも思えるほど、延々と。

 私の頭は、今朝感じた違和感をぐるぐると考え続けている。友達との喧嘩を、些末な問題と感じてしまうほどに、そればかり。

 考えれば考えるほど輪郭がぼやけていく感覚に襲われるが、いやにリアルな夢をみていたことだけは、はっきりと覚えていた。

 自分の名前も、住んでいた場所も、わからないのに。

 恐らくは大学生であった『私』のことを知りたくて、必死に夢の内容を思い出そうとしていたのである。とはいえ、夢の内容を思い出す作業というのは、思いの外苦労する。なにせ、実在しない記憶を辿ることになるのだ。

 しかし、どうしてここまでの労力を払ってまで思い出そうとするのだろうか。

 それは、今の私が私ではないのだと、自ら認めているようで。

 今の私から、逃避しているようにも感じられる。

 そうやって思考を深めていくうち、ぼんやりとしていく、『私』の人生と生活。

 それはまるで『私』がこの世から消失していくような錯覚を覚えるほどで、なにがなんでも忘れてはならないような気さえした。

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