『はんぶんこの二乗と抱擁』5

 果たして。

 ふらふらとした足取りで、一人の人間が公園に入ってきた。

 私はそっとスマホで動画撮影を開始した。

 路上生活者なのだろうか、あまり身奇麗な格好はしていない。着ている服も履いている靴もぼろぼろだ。

 そして、髪の毛の長さ。ヤマトくんが言っていた通り、髪は肩ほどまでの長さの女性だ。しかし、前髪が顔の半分ほどを占めていて、表情までは窺えない。どういう感情で、なにが目的で、田舎の誰も居ない夜の公園に来たのだろう。

 ふらふらと、酒に酔っているような、或いは、怪我でもしているかのような危なげな歩調で、女性は歩みを進めている。まるで強い執着でもあるかのように、絶対にその足を止めようとしない。わけのわからないものがこんなにも恐怖を掻き立てるのかと、改めて戦慄する。向こうから私たちが見えていないのが、唯一の救いだ。

「――っ」

 が、その安堵は一瞬にして崩れ去った。

 女性はにおいを嗅ぐような動作を取ったかと思うと、ぐるりと身体ごと振り返り、勢いよくこっちを見た。

 気づかれた、と思ったときには、女性が目前に迫っていた。

 どんな身体能力だよ、それは血肉を摂取することで身体強化でもされているのか、それってもう吸血鬼かなにかじゃん。そんなまとまりのない思考が、頭の中を駆け巡る。

 咄嗟に、私はみどりを庇うように身体を乗り出した。同時に、みどりの持つスマホを指差して、それで雅貴くんに助けを求めるように促す。

 大丈夫、みどりは少しずつ人間の言葉も発せるようになってきているんだ。今朝だって、友達が殺されていて心はぐしゃぐしゃに動揺していただろうに、人の言葉で話せたんだ。大丈夫、大丈夫。

 そんな私の気持ちが伝わるように、みどりに笑顔を向けた。恐らくは恐怖で引き攣った笑顔だったのだろう。みどりは、これまでに見たことのない悲痛な表情を浮かべていた。ああ違う、そんな辛そうな表情をしてほしかったんじゃないのに――なんて思う暇があったのは、もしかしたら身に迫る危険を前に、目の前の光景が全てスローモーションになって見えていたのかもしれない。

 鋭い牙を持つ口が、迫る。

 この牙が、私たちの友達を殺したんだ。

 そう思うと、恐怖よりも、一矢報いたい衝動に駆られる。いや違う、この人に危害を加えたいんじゃない。あくまで、この人を捕まえて、然るべき罰を受けてほしいだけなんだ。

 みどりから渡された催涙スプレーを取り出そうと、ポケットに手を伸ばす。が、伸ばしたその手を女性に掴まれてしまった。振り解けないほど強い力に、骨まで折られてしまうのではないかと危惧する。痛い。催涙スプレーが取り出せない。牙が、私の首元を狙っている。怖い。

「――コハクくん、いただきまぁす」

 噛みつかれる、と思った瞬間、女性は確かにそう言った。

 彼女の目的は人間だったのか。いや、今確かに私の名前を口にした。つまり、目的は私だったということか? 私をおびき出す為に、猫や鳥を殺したというのか?

 それは。

 それは、許せない。

 怒りに歯を食いしばり、奥歯が悲鳴を上げた気がした。

 こうなれば、一度わざと噛みつかせて、そこから形勢逆転を狙うしかない。怒りに支配された身体は正論なんて丸無視して、とにかく一発この人を殴らないと収まらなくなっていた。

 しかし。

「ぎゃっ」

 短い悲鳴と共に、女性は私から離れた。いや、離された、と言ったほうが正しい。

 『それ』は、真っ白な腕だった。色白とかそういう次元じゃなくて、本当に白色。夜の闇すら弾いてしまうのではないかと思うほど、艷やかで毛並みの良い白色だ。

 白色の腕は大きく、その手のひらで――いや、肉球で、女性の上半身を容易に踏んづけて抑え込んでいる。

「……――しろさん?」

 不意に口をついて出たのは、二年前の冬に亡くなった、兄弟同然の大切な友達の名前だった。

 人間を片手で抑え込めてしまうほど巨大な手を持つ『それ』の顔を確かめようと、顔を上げる。

 ああ、どれだけ身体が大きくなっていようと、間違えようのない。

 よく見知った琥珀色の瞳が、私を見つめ返してきていた。

「しろさんじゃん!」

『久しぶり、琥珀』

 しろさんは目を細め、懐かしい声で鳴いた。

 どうしてそんなに大きくなっちゃったのとか、あの日確かに私の腕の中で死んだはずとか、次々に言いたいことと聞きたいことが溢れて、口の中で渋滞する。そんな私を見たしろさんは上機嫌な様子で、

『あとで説明する。ただ、ちょっと待ってくれ』

と言った。

「ぐううっ、またお前か! 離せ、離しなさいよっ! コハク君の血を飲ませろ! 飲ませろ飲ませろ飲ませろっ!」

『うるさい、静かにしろ』

 しろさんの手の下で暴れていた女性は、しかし、しろさんが手に僅かに力を込めると、あっさりと気絶した。

『さて。お嬢さん、縄は持っているか?』

 スマホを握り締めて呆然と座り込んでいたみどりは、しろさんにそう声をかけられると、はっと我に返った。そしていそいそと、リュックサックから縄を取り出す。……持ってきてたんだ、縄。


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