『はんぶんこの二乗と抱擁』3

 張り込み開始から三日が経過した。

 あれから、犯人と思しき人物は公園に現れていない。

 よく公園に来る猫たちに聞いてみても、怪しげな人間は見ていないとのことだった。

 警察による見回りと、有志による注意喚起の周知活動が功を奏したのだろうか。これで犯人がフェードアウトしてくれるのであれば、直近の危機は去ったとも言える。念の為にもうしばらく張り込みを続ける程度で、事件は緩やかに解決へと向かっていっていると思っていたのだけれど。

 その日の朝。

 私はいつも通り、猫たちと話をしながら登校した。

 そしてすぐに、教室内で普段と異なる点があることに気がつく。

 それは、普段は朝早くに登校している友達が不在である、ということだった。

 花桐はなぎりみどり――彼女は私と出身中学が同じで、進学した高校も一緒になった友達だ。一年生のときはクラスが離れていたが、今年は同じクラスになったということもあり、朝の挨拶は恒例となっていた。

 そうは言っても、彼女は子どもの頃から失声症という状態にあり、最近でこそか細い声が出るようになったとはいえ、一般的な声量での日常会話は未だに難しい。それでも私は、毎朝彼女から精一杯の「おはよう」の声を聞くことを、ささやかな楽しみにしていた。

 一方で、彼女は私と二人きりのときに限り、とても雄弁に語る。

 それでは先の彼女の状態と相反するのではないか、なんて思われるかもしれない。だが、彼女には『もうひとつの声がある』と言ったら、話はちょっとだけ変わってくるだろう。なにせ、彼女には――

「――……く、琥珀……」

 自分の席について、鞄から机に勉強道具を移していた私に向けて、震えた声がした。

 見れば、みどりが目元を真っ赤にして、こちらを見ているではないか。

「ど、どうしたの、みどり?! 転んだ? それとも、お腹痛いとか?」

 咄嗟に立ち上がり、彼女の状態を確認する。外から見た感じ、怪我はない。泣き腫らしているとはいえ、顔色が悪いということもない。

「は、ハルちゃ……ハルちゃん、が……」

 か細く掠れた声で、ぼろぼろと涙を零しながら、みどりは必死に状況を説明しようとしてくれている。しかし、あまり無理に話そうとすると、彼女の喉に負担をかけかねない。

「保健室に行こう、保健室! あ、牧田まきた君、花桐さんが体調悪いみたいだから、俺、保健室まで送り届けてくるね! 一限目、休むかもしれないって先生に言っておいてくれる?」

 隣の席のクラスメイトに伝言を頼み、私はみどりと連れ立って教室を出た。

 が、行き先は保健室ではない。今は彼女にとって安心して話ができる場所――駐輪場裏に行くべきだと判断した。生徒玄関を目指し階段を降りている途中に、朝のSHR開始を告げるチャイムが鳴った。他の生徒は皆、私たちと逆に階段を上っていく。

 下駄箱で靴を外履きに履き替え、一応は周りに誰も居ないか注意しつつ、駐輪場裏へと到着した。ここなら人目につきにくい上に、美術部であるみどりが頻繁に来ている写生スポットだ。彼女のテリトリーであるここでなら、安心して話ができるはずである。

「とりあえず……お茶、飲む?」

 教室を出る前、咄嗟に鞄から持ち出してきた水筒のコップにお茶を注ぎ、みどりに差し出す。すると、移動中に涙は一旦止まっていたらしいみどりは、少し呆然としつつもそれを受け取り、

『……ありがとう』

と、カワセミの鳴き声を発して、そう言った。

 そう、彼女にはもうひとつの声がある。

 それは、カワセミという鳥の声だ。

 本人曰く、昔は姿もカワセミに変えられたらしいが、現在は声を発するのみ。また、そういう特性があるが故に、みどりは鳥全般と会話ができるのだ。

 私が問題なく聞き取れる動物の声は、猫が主だ。そこから、犬、鳥類と、言語の解像度が下がっていく。みどりと話をするようになってまだ一年ちょっとだが、その間にだいぶカワセミの言葉は聞き取れるようになったほうだと自負している。

 みどりがお茶を飲んで一息ついている間に、一限目の開始を告げるチャイムが鳴った。欠席については牧田君に伝言を頼んでいるから、ただ引率しただけの私の欠席は訝しまれるだろうが、みどりのほうは問題ないだろう。

『……ハルちゃんが、死んでたの』

 気力のない弱々しい声音で、みどりは言った。

「ハルちゃんって、確か、みどりの近所で巣を作ってた、ツバメのことだよね?」

 それは春先から夏にかけて、みどりが頻繁に口にしていた話題だ。忙しなかった子育ても最近になってようやく落ち着き、ゆっくり話ができるようになって楽しい、というようなことを話していたと記憶している。

『ハルちゃん、うちの近くで……噛み千切られて死んでて……それで、埋葬してから学校に来たら、いつもより遅くなっちゃった……』

「噛み千切られて……」

 どうしたってこのタイミングでそう言われてしまえば、公園に出没する猫殺しの犯人を想起せざるを得ない。しかし、鳥が亡くなる理由は、なにもそれだけとは限らない。交通事故、野犬、野良猫――そういった要因で亡くなった可能性だって、十二分に考えられる。

 と、思ったのだけれど。

『それでね、ハルちゃんを埋めてるときに、チカちゃんが来て、教えてくれたの。「この子を殺したのは人間だよ。ヤマトが言ってたやつがやったのを見た」って。ねえ、ヤマトって、琥珀の知り合いの猫だよね?』

 どうやら私の知らないところで、状況は動き続けていたらしい。

 先日、私に情報提供の協力をしてくれたチヒロくんの妹である、チカちゃん。彼女が現在避難所として滞在している源本さんの家は、みどりの家がある住宅街の近くだ。きっとチカちゃんは偶然犯行現場を目撃し、その被害者がみどりと仲が良いことを知っていたから、善意でみどりに教えてくれたのだろう。けれど、如何せんタイミングが悪過ぎる。友達が殺されて間もない人間にそういうことを伝えたら、復讐心を煽るのは明らかだ。

 案の定、どういうことなのか、とみどりから、言外に詳細を語るよう圧をかけられているのがわかる。

 張り込み人員が増えるのであれば、事件の詳細を洗い浚い話してしまっても良いんじゃないか、という気持ちが半分。

 状況的に冷静さを欠く友達を巻き込むのは、あまりに危険ではないか、という危惧が半分。

 思案する私に、みどりは圧を強めるように、涙を拭って、言う。

『琥珀は事実を正しく伝えてくれたら、それで良い。それを聞いて私がどう行動するかまでは、貴方の責任じゃないでしょ』

 私の思考を読んだかのような言いかたに、思わずごくりと唾を飲んだ。

 なにが正解で不正解かなんて、今の時点でわかるわけもない。仮に選択肢を間違えたとして、選択した瞬間に戻ってやり直せるわけでもない。人生は日常的に選択をして構成されていくが、こういう盤面での選択ほど苦しいものはない。

 けれど、選ばないという選択は、あまりしたくない。

 選ばなかったことを、なにもしないでいたことを、後になって悔やむのだけは嫌だった。

 だってそれは、しろさんの最期から学んだことだったから。

「……わかった、話す、話すよ」

 降参です、という意思表示代わりに両手を軽く上げながら、私は言う。

「話すけど、それによってみどりがどういう行動を取ろうと、俺はそれをフォローするつもりだから、そこのところよろしくね」

『別に、フォローなんて、要らないのに』

「友達が困ってたら助けたいと思うのが、俺の性分だからさ。たぶんそれは、今みどりがハルちゃんのことでなにか行動を起こしたいって思うのと、似たものだと思うんだ」

『……そうだね。琥珀は、確かにそういう人だね』

 そう言って、みどりは力なく笑った。

「それで、ええと、チカちゃんが言っていたことなんだけれど……」

 そうして私は、現在、近所の公園で起きている事件について話した。

 みどりは終始、眉間にしわを寄せていたが、いろんな言葉を喉の奥に押し込んで、黙って聞いていた。

『……次に私が言うこと、琥珀はもうわかってると思うけど、言わせてもらうね』

 私からの説明が終わると、みどりはそう宣言し、大きく深呼吸をしてから、続ける。

『私も、一緒に張り込みする』

「うん、だよね」

 そうなるのだろうな、と予測ができていた私は、ただ頷く。彼女の立場になって考えてみれば、それを跳ね除けることも否定することも、できるわけがなかった。

「あ、だけど帰りは俺に送らせてね。今回の犯人がどうこう以前に、夜道は危険だからさ」

『それは……いや、うん、わかった』

 なにかを言いかけつつも、みどりは了承してくれた。

 もしかしたら、帰り道だって鳥の友達と一緒に帰るから、送迎は不要だと言いたかったのかもしれない。みどりは人間よりも、鳥の友達のほうが多いのだ。

「それじゃあ、今夜の張り込みからよろしく頼むよ。公園は、ちょうど俺とみどりの家の間くらいの場所にあって――」

 結局、それから張り込みの計画を詰めていたら、一限目が終わっていた。

 見事に授業をサボったことになった私たちは、今回は初回ということで、担任の先生から厳重に注意を受ける程度で済んだのだった。

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