『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』4

 振り返ると、案の定、あの人が立っていた。

 風貌は二十年前と全く変わっていない。当時をして長身だと思ってはいたが、これは三メートル近くあるのではないだろうか。その縦に長い身体を足首まですっぽりと覆うコートは、月明かりでは断言できないが、恐らくは深緑色だろう。

「あ、――っ」

 私は反射的に返事をしそうになって、慌てて右手で自分の口を封じた。

 この人と会話をしてはいけない。相槌も、返事も、してはいけない。

 そういう約束だったはず。

「ああ、良い良い。それは忘れてくれて良い。御主はもう元の世界には帰れない。だから、好きなだけ儂と会話をしても問題ない」

 言いながら、その人は軽い足取りでこちらに歩いて来る。

 表情は相変わらずの笑顔だが、あの日と違って、獰猛な視線は見る影もない。それどころか、ひどく上機嫌であるようにさえ見える。

「あれからそう経ってないというのに、もう来てしまったのか。む、少し背が伸びたか?」

 身を屈め、まるで久しぶりに会った親戚の子に接するように、その人は私の頭を撫でた。

 その手は私の頭など簡単に握り潰せるほどあり、私は咄嗟に身を捩って逃れた。

「に、二十年はまあまあの時間だと思う。それと、あのときと比べれば、そりゃあ背は伸びてるだろうが、成長期はとっくの昔に終わってる」

 混乱する頭では、なにから話せば良いのかわからず、とにかく私は先の言葉に反応した。しかし、返答するだけにしてはあまりに語気が強かったかと後悔しかけた先、その人は、

「儂からすれば二十年なぞ、つい昨日とさして変わりない。が、人間にとってはそうなるか」

と、全く気にする素振りも見せず、呑気にそんなことを言った。

「あ、あの、二十年前みたいに、俺を元の世界に帰すことって、できないんですか?」

 それは、藁にもすがる思いで出た問いかけだった。

 この人は以前、私が世界を渡れる能力を、電池に例えていた。充電式ではなく、使い切りの電池だと。切れかけの電池は、手で擦れば一度くらいは使えるようになる。そういう悪足掻きができないか、という意味も含んでの質問だったのだが。

「できんよ。そうさなあ、電池に例えて言うのであれば、前に儂が力を貸して元の世界に帰ったあのときが、それこそ電池を擦って無理くり使い倒した悪足掻きだったのだ」

 一縷の望みは、ばっさりと切り捨てられた。

「そんな……」

 どうにかならないか、と思考を巡らす。だが実際に、さきほど何度も鳥居をくぐったところでなにも起こらなかったではないか。自力では帰れない。頼みの綱であったこの人も、これ以上はできないと言う。それならば、もう、どうすることもできないのだ。

「そう気落ちするでない。どれ、少し話を……ふむ」

 言いながら、その人はコートを脱ぎ、私の肩に掛けた。

 ただでさえ長身の人が着ていたコートなんて、どうしたって裾を地につけてしまう。

 そう思って咄嗟に裾を持ち上げたが、不思議なことに、コートは私の身体に合う大きさに変わっていた。それどころか、履いた覚えのない靴も履いている。

「その格好では寒いだろう? そのコートと靴は御主に遣ろう」

「いやでも、それだと貴女が――」

 言いかけて、言葉が喉元で詰まった。

 その人は、既にデザインの異なるコートと靴を身に着けていたのだ。

 これも、この人の不思議な力のひとつなのだろうか。この人は一体いくつ不思議な力を持っているのだろう……なんて首を傾げる私を一笑に付し、その人は言う。

「スキメ、だ。町の皆からはスキメ様と呼ばれている」

「町の名前と、一緒ですね」

「そりゃあ、この町の大元を創ったのは儂だからなあ」

 からからと笑いながら、その人――スキメ様は続ける。

「少し、歩きながら話そうか」

 そうしてスキメ様は歩き出した。身長が高いぶん、一歩も大きい。私は小走り気味について行くしかない。

「だけど、話って?」

「御主、この世界では住所不定無職なのは理解しているか?」

「……」

 まさか、町の大元を創造しその名が町名になってる上位存在から、そんな現実的な指摘をされるとは思わず、私は絶句した。

「御主の当座の寝床と仕事に、ちとアテがあるのだ。なに、彼奴あやつは先の戦争が終わってからこの町に住み続けている古株でな。人間の生活に関する大抵のことなら、彼奴に訊けばわかるだろうよ」

 歴史の流れが私の元居た世界と同一であると仮定しても、スキメ様がアテにしてる人物は老人ということになる。恐らくはとっくの昔に隠遁生活に入っているだろうに、突然私なぞが行って大丈夫なのだろうか。

「心配は要らぬ。儂は先日、なんでも一人でやってのける彼奴が『流石に手が足りない』とぼやいているのを、確かに聞いているでな」

 当然のように私の心を読んでそう言ったスキメ様に、私は小さくため息をついてから、

「その人は、なにかお仕事をされてる人なんですか?」

と訊いた。

「ああ。少し前から喫茶店というものを始めておってな。どうもここ最近、店が流行りだして手が足りとらんようだ」

「だから住み込みで働かせてくれる、と? でも、その人が俺を雇ってくれるかどうかなんて――」

「雇ってくれるさ。間違いなく、な」

 スキメ様は、断言した。

 それはまるで、確定した未来の話をしているかのようにも見えて。

 上位存在というやつは、未来視もできるのだろうか。

「いやいや、流石の儂も未来までは見通せないさ」

 ときに、とスキメ様は、あからさまに話を逸らす。

「御主、両親のどちらかの旧姓は『永山ながやま』だな?」

「え? まあ、はい。母方が永山姓ですね」

 話題を変えるにしたって強引過ぎやしないか、と訝しみつつ、私は頷いた。

「その祖先に、死の淵から奇跡的に復活した人間が居るだろう」

「ええ……? ええと……」

 私の実家は、両親のそれぞれの実家の中間ほどに在った。だから両家には比較的頻繁に顔を出しに行っていたが、それも成人するまでの話である。特に、大学を卒業してからは、年に一回行ければ良いほうだった。

 懸命に、古い記憶を呼び起こそうとする。母親の実家はなんでも歴史の長い一族の本家らしく、家屋こそリフォームされていたが、一族の写真が並ぶ部屋はなかなかに圧巻だったことは覚えている。

 脈々とその血を繋ぐ永山一族。

 そういえば、その長い歴史の中で一度、血が途絶えそうになったことがあったと、祖父が言っていた気がする。そうだ、それは確か――

「詳しい元号は忘れましたけど、江戸時代の終わり頃に、当時は治療ができなかった流行り病に罹ったけど、奇跡的に治った人が居たような……」

 祖父曰く、それ以来、永山の一族は大病を患うことなく無病息災であるそうだ。

 なんでも、迎え入れたカミサマを永年祀ることで云々かんぬん、祖父は自慢げに語っていたが、子どもには難しい話だったこともあり、ほとんど右から左に抜けてしまっている。そして、元の世界に帰れなくなった今、その話を聞くことは二度と叶わない。

「だけどスキメ様、一体どうしてそんな話をするんですか?」

 帰れないことを悔やんだところで、どうすることもできない。

 だから私は、ゆっくりと瞬きをして思考を切り替え、スキメ様にそう尋ねた。

 するとスキメ様は上機嫌に、

「いやなに、これから会う喫茶店の店主が、その永山家の人間なのだ」

と言う。

「詳細は省くが、あれは御主の世界とは異なる方法で病から回復した、永山家の人間だ」

 不意に思い出したのは、蝶の羽ばたきのような小さなできごとでも、最終的には大きな結末に繋がっている――バタフライエフェクトという言葉だった。

 母方の祖先が、私の世界とは別の方法で快復し、それが巡り巡って、この世界で私が生まれない現実を生み出したのかもしれない。

 であれば、ここは漠然となにかの理を異とする並行世界ではなく。

 まさしく、私にとっての並行世界なのかもしれない。

 スキメ様から貰ったコートを着ているにも関わらず、ぞくりとした寒気が全身を撫でた。

「儂のほうからあれこれ言うと、彼奴が個人情報だなんだと喧しいからな。知りたいことがあれば、折を見て本人に訊いてみると良い。というか、彼奴とは積極的に会話をして欲しいのだ。元より無愛想なやつだったが、最近はそれに磨きがかかってきていてなあ」

「……善処します」

 恐らくスキメ様は、世界は違えど、血を分けた子孫である私ならば可能だと考えたのだろう。とはいえ、相手は何十歳も年上のご老人だ。あまり会話が続くようには思えない。

「あまり深く考えんでも良い。あれでいて、彼奴の話題の引き出しは多い――と、ここだ」

 そう言ってスキメ様は、一軒家の前で足を止めた。

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