『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』3

 あれから、二十年という歳月が流れた。

 あの田舎町――透目町すきめちょうへ行かなくなってから、加速度的にあの日々の輪郭さえぼやけていき、次第にあの町のことを思い出す機会は減っていった。今となっては、一時期だけとてもリアルな夢をみていただけだったのだと、そう思う。

 それでも。

 日毎にぼやけていくあの頃の記憶の中に、あの人から言われた言葉だけははっきりと耳の奥に残っている。

 ――二度と此方へ来てはならんぞ。

 あの日、あの人が私の前へ現れたこと。そして、忠告をしてくれたこと。なにより、元の世界へ返してくれたことを、心の底から有り難く思う。

 透目町で過ごした日々の記憶はぼやけてはいるが、完全に消失したわけではない。漠然と、楽しかったことは覚えている。だから、人生の難所に立ったときは、あの町へ逃げ込んでしまいたいと考えることが多々あった。しかしその度、あの人の忠告が脳裏を過り、馬鹿なことを考えている暇があったら現実と向き合おう、と方向転換をしてこられたのだ。

 そうやって、私は高校受験や大学受験、就職活動という人生の分岐点や、人間関係に苦しんで逃げ出したいときも、どうにか乗り越えてきた。乗り越えられてきていた。きっとこれから先も、私はそうやって生きていくのだろう。

 だって私には、なにもない。

 そうやって生きていく以外の方法を、私は知らない。

 私なんていうのは、子どもの頃にみた夢に感化され、小説家や漫画家を目指し、そして挫折した、普通の人間だ。別段、普通であることを否定するつもりはない。大多数の人間が歩む道のりであるが故に、社会的信用を得やすいし、安定した収入による安全な日常が保障される。普通であることは、なにより大切なこととも言える。

 大学を卒業し、就職し。いずれは誰かと結婚し、子どもをもうけるのだろうか。そうして定年まで働き通したあとは、どうなるのだろう。私が透目町で味わった日常は、きっとそこにはない。なにせ不景気な世の中だ、死ぬまで金の心配をしながら労働をすることになるのかもしれない。

 いや、そんな先のことまで心配したところで無意味かもしれない。私は虚しいだけの生物だ。夢に破れ、日々会社員として働いて生活費を稼ぎ、趣味といえるほどの趣味もなく。死ぬまでの時間をそうやって浪費し続けるだけ。それだけの生き物。

 有り体に言えば、そう、人生に疲れたのかもしれない。

 いや、どちらかといえば、人生を少し休みたくなった、と言ったほうが正確か。

 ともかく、毎日同じことを繰り返し、既定路線を歩きつつも常に先の心配をし続ける日々から、少しだけ離脱したくなったのだ。

 理由とか原因とか、そんな大層なものはない。身体も精神もいたって健康そのもので、だからこそ、健康であるうちに一度全てから離れて休む必要があった。

 しかし、それを周りにどう説明したものか。健康なのだから休職はできない。だからと言って退職すれば、再就職するまでが大変になる。結局のところ、身体なり精神なりが壊れないと休めないのだ。社会とは、なんとも面倒な仕組みをしていると言わざるを得ない。

 ……なんて。

 最近は、そんなことばかりを考えている。

 久しぶりに透目町のことを思い出したのも、現実逃避の一環だった。

 あの町での日々が本物であれ、私の頭の中にだけ在る空想であれ、どうせ、二度と行くことは叶わない場所であることに変わりはない。

 本物だとして、今の私にあそこへ行く力はもう残っていない。

 空想だとして、当時ほどの想像力が今の私に在るはずもない。

 虚無感に苛まれながら、今日も私は床に就く。

 瞼を閉じ、眠ることに意識を集中する。

 意識がゆっくりと沈んできた頃、ふと、私は考えた。

 十歳の私は、いつもどうやって透目町に行っていたのだっただろうか――と。行きたいと願えば行けたのだったか、或いは、目的地を定めて眠りについていたのか。

 それはほとんど無意識に近いもので、他意も意図も決してなかった。

 けれど私は、よりにもよって入眠時に考えてしまったのだ。

 だからこれは、ある意味では自業自得の結果と言えるのだろう。

「…………は?」

 微睡んでいた意識が、あまりの寒さにより、強制的に叩き起こされた。

 自宅のベッドで寝ていたはずなのに、どうして私は今、夜の野外に立っているのか。足元を見ると、靴すら履いていなかった。まさか、裸足でここまで歩いてきたのか? それにしては、足裏は汚れていないような気もするが、如何せん暗くて判然としない。

 わけもわからないまま、私は周囲を見回した。

 とにかく、屋内に入りたかった。十一月も終盤に差し掛かった夜なんて、寒いどころの話ではない。防寒具を着用していたのならともかく、今の私は寝間着姿なのだ。とてもじゃないが、この気温に耐えられる格好ではない。

「……ここは……」

 心許ない月明かりと街灯を頼りに、周囲の状況を見回して、そして、私は愕然とした。

 あれから二十年が経っていようが、いくら記憶が曖昧になっていようが、この場所だけは、忘れられるはずもない。

 見覚えのある道と地形、そして、鳥居。

 冷や汗が、どっと吹き出る。それが身体を冷やして、余計に寒さに震える。

 間違いない。

 私は今、透目町に居るのだ。

 やってしまった、と頭を抱え、そして私は走り出した。あの頃のように鳥居をくぐれば、まだ戻れるかもしれない。ここへ来られた以上、戻れる可能性だってあるはずだ。どうか、そうであってくれ。

 祈るような想いを抱えて、私は鳥居をくぐった。

 だが、夢から覚めることはなく。

 冬が近づく夜は、不気味なほどの静寂が横たわっていた。

 皮膚を裏側から撫でられたような得体の知れない恐怖が、全身に走る。

「戻れ……戻れよ……!」

 何度も何度も、私は鳥居をくぐり直した。

 二十年前のあの日と同じように。或いは、それ以上に。

 しかし、景色は一向に変わってはくれない。時折、風が嘲笑うかのように吹くだけだ。

 ああ、私が間違っていた。

 私にはなんにもないなんて、そんなのは間違いだったんだ。

 少なくともあの世界には、自宅も両親も友人も、仕事も財産も戸籍もあった。それなのに、人生に疲れたなんて馬鹿なことを考えたから、罰が当たったのだ。

 これがフィクションの世界であれば、ここで上手いこと助けが来ることだってあったかもしれない。しかしここは、あくまで不思議なことが当たり前に起きるだけの、もうひとつの現実世界だ。特別な能力に目覚めることもなければ、これまでの経験から得た知識や技能が活きるわけでもない。この世界において、私はただの身元不明な成人男性でしかない。誰にも、私自身でさえ、私が私である証明ができないのだ。

「――来たか、二木充紀」

 と。

 背後から、聞き覚えのある声がした。

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