『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』2
しかし、夢の中にある町に通う日々は、ある日、前触れなく終わりを迎えることとなる。
いつものように町で遊び回り、いつものように夢から覚めようと、近くの神社に向かった。
なにも変わらない、いつも通りの帰り道。
だが、その日は鳥居をくぐっても、私の意識は夢から覚めてくれなかった。
何度やり直しても、景色は変わってくれない。太陽はそれを面白がって見物しているかのように、じれったい速度で沈んでいく。
まさか。いや、そんなはずはない。今まで上手くいってたじゃないか。
不安がる自分を落ち着かせようとして、ぐっと目を瞑る。しかし、眼球がじんわりと熱を持ち、次第に涙が閉じた瞼から零れ落ちるだけだった。視界が歪む。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
動揺してぐらつく思考回路では、まともな答えは導き出せそうにない。それでも、思考を止めてはいけない。止めたらお終いだと、そう思った。
鳥居の前に蹲り、ぼたぼたと地面に落ちていく涙を眺めながら、私は思案にふける。
「――こんにちは。いや、もうこんばんはの時間かな?」
と。
突如として頭上から降ってきた女性の声に、私は反射的に顔を上げた。そうしてほぼ同時に、私に声をかけてきた人物が、この町でも段違いに『普通じゃない』と知ることとなる。
真っ直ぐ艷やかな黒髪は、腰元に届くほど長く。
深緑色を基調としたワンピースは、足首がちらりとのぞくほどのロング丈で。
それだけの説明なら、至極一般的な女性の姿だろうが。
その人の身長は、たまさか私の倍ほどあるのではないかと思うほどあったのだ。
いくら私がしゃがんでいるからと言っても、その背丈はあまりに人間離れしていた。
見上げても上げなりない高い場所にある顔は、両目で私を視界に捉えると、にっこりと笑みを深めて、
「
と、当然のように私の名前を呼んだのだった。
刹那、この人は人間じゃない、と脳が警鐘を鳴らし始める。涙はいつの間にか、引っ込んでいた。
この人の口元は確かに笑っているが、目はそうじゃない。どころか、獲物を狩ろうとするような、獰猛な視線とさえ思える。
逃げなきゃという本能と、逃げられないという直感が衝突した結果、私の身体は硬直し、歯を鳴らしながらその人を見つめることしかできなかった。
「そう怯えなさんな。確かに儂は外の人間は嫌いだが、取って喰うわけじゃない。儂は御主と話をしに来ただけだ」
穏やかな笑顔を浮かべたその人は、ぱちんと指を鳴らした。
すると、しゅるしゅると木の蔦が伸びてきて、鳥居のそばに、あっという間に椅子が二脚できあがったではないか。規格外な大きさの存在が作った椅子は、案の定、規格外に大きく。とてもじゃないが、私が自力でよじ登れる高さとは思えなかった。
「ほら、早う座れ。……嗚呼、御主には大き過ぎたな」
私が自力で椅子に座れないと気づくや否や、その人は再び指を鳴らす。どこからともなく現れた蔦は、優しく私の身体を持ち上げると、椅子の上へと運んでくれた。そのまま身体を拘束されるのではないかと身構えたが、蔦は素っ気なく私から離れ、地中へと戻っていく。
「今日は夕焼けが綺麗だから、きっと時間の流れも遅くなる。御主とはじっくり話ができそうだ」
この町には、時間の流れを遅くできる人もいるのか。それなら今からでも会いに行って、もっともっと遅くしてもらえるだろうか。その間に、どうにか帰る手段を見つけなければ。
そんなことを考えた矢先、その人は、
「駄目だ」
と、即座に牽制してきた。
なんだ、今のは。まるで――
「『まるで心の中を読まれているみたいだ』、か? そうだよ、儂には今、御主の心の声が聞こえている。どうしてかって、そりゃあ、儂は神様みたいなものだからなあ。順を追って儂が御主の前に現れた理由を話してやるから、御主は黙って聞いておれ。良いか、相槌も返事もなしだ」
そう言って、自称神様も蔦でできた椅子に腰を落とした。
私の椅子のほうが大きいからか、こうして座っていると、さきほどより感じる威圧感は薄まったように思える。とはいえ、相変わらず脳からは警報が鳴り響いているような状態で、私は緊張した面持ちで頷いて見せた。
「聞きわけが良くて助かるよ。儂と会話をしてはいけない理由も追々話すが、そうだな、まずは単刀直入に訊こう。御主、この世界の人間ではないだろう?」
それは鎌をかけているなんてものではなく。
こちらはとっくに見抜いているのだから、大人しく認めろ、と。
小学生の私でも、言外からの圧をはっきりと感じ取れる言いかただった。
私は、ぷらぷらと所在なさげに揺れる自身の足先を見つめながら、小さく頷いた。
「ここは御主の夢の中にだけ存在する世界ではない。並行世界――或いは、パラレルワールドと言ったほうがわかりやすいか。同じようでいて、決定的に理の異なる世界と言っても良い。この世界に本来御主は存在しないし、御主の世界にこの町は存在していない。並行である以上、決して交わることはないし、干渉もしないものだ。それがどういうわけか、御主は何度も世界の境界を飛び越えてきてしまっている。そちらの世界に、そういった能力を持つ人間は存在し得ないはずなのに、だ。世界の特異点なのか、歪みなのか、或いは――いや、それについての追求は儂の役目ではないし、今この場で取り上げる話題ではないな」
こほん、と小さく咳払いをし、その人は話題の仕切り直しをする。
「問題は、御主が世界と世界の間を頻繁に行き来し過ぎたことだ」
私がこの町に訪れるのは、週に三回か四回ほど。
それが約半年間、続いていた。
「御主の場合、世界を行き来できる力は有限だ。回数券ではなく電池式、その電池も使い切りタイプである……と例えれば、理解し易いか? ともかく、御主は今日この町に来た時点で、その力をほとんど使い果たしてしまったのだ。御主が自力で元の世界に帰るだけの力を、今の御主はもう持ち合わせていない」
認めなくなかった事実を、その人は容易に口にした。
大人の人が、否、不思議な力をいくつも使う神様みたいな人に断言されてしまえば、それは子どもにとっては確定事項の通告、或いは死刑宣告と大差ないように思えた。
「家に帰りたいか?」
願ってもない言葉に、私はそれに即座に頷いた。
「ははっ、素直で大変よろしい」
その人は口を開けて笑い、それから、
「儂が御主を元の世界に帰してやろう」
と言った。
良かった、と安堵するのとほぼ同時に、脳裏に不安が過る。
エネルギー切れで元の世界に帰れなくなった子どもを、どうしてこの人は笑顔で帰してくれると言ったのだろう。対価や代償が必要なのではないだろうか。仮にそれらが必要だとして、私が支払うことはできるのだろうか。
「聡い子だね。だが、対価や代償なんてものは必要ない。御主はこの町で特段悪事を働いたわけでもなく、むしろ、町の人間と仲良くしてくれたからね。それだけで充分だ」
そんな理由で良いのだろうか、と疑問に感じた私に、その人は当然のように、良いんだよ、と返し、なにごともないように話を続ける。
「さっき、儂は自分を神様みたいなものだと言っただろう? 正確には、人間に信仰され存在する神様よりも、もっと上位の存在なのさ。御主が異界の上位存在と会話をしたら、それが縁になって、この世界に留めかねん。だから御主が儂と口を利くことを禁じたのだ。そういうわけだから、帰るべき世界の輪郭を捉えている御主をそちらへ送ることくらい、儂にとっては造作もないことなのだ」
強いて言えば、とその人は続ける。
「御主の世界に帰ってからのほうが注意すべきだな。御主は力を『ほとんど』使い果たしているが、『全て』使い切ったわけではない。極端な話、もう一度この町へ来られる可能性だってある。だが、来てしまったら、それが最後だ。力を使い切ってしまったら、元の世界との繋がりは完全に断たれ、いかな儂といえども、帰すことはできなくなる。良いか、二度と此方へ来てはならんぞ。それは肝に銘じておけ」
刹那、背中に氷水でも流し込まれたように、全身が粟立った。
自分がどれだけ危ない橋を呑気に歩いていたのか、私はこのときになって、ようやく理解したのだ。
「話は以上だ。さあ、御主を元の世界へ帰そう」
言って、その人が指を鳴らすと、蔦でできた椅子はゆっくりと解けるように解体されていく。地中に戻っていく蔦に合わせて地面に足をつけ立ち上がると、隣には、既に椅子から腰を上げたその人が居た。
「おいで」
その人は、私を鳥居の前へ来るよう手招きした。
そうして私が来たことを確認すると、その人は鳥居の額束の辺りに触れた。
次の瞬間、ふわりと向かい風が吹く。
鳥居の向こうから吹いている風なのに、どうにも違和感が拭えなくて、私はそれが元の世界から吹いている風なのだと感じた。きっとこの人が、元の世界へと繋げてくれたのだろう。
「いつも通りに帰るだけで良い。この鳥居をくぐれば、御主の本来在るべき世界に帰れる。さあ、お行き」
優しい声音で言ったその人の顔を、改めて見る。
日もほとんど沈み、辺りは薄暗くなりつつある。逢魔ヶ刻だ。その人は相変わらず、獰猛な視線を私に向けつつ、穏やかな微笑みを浮かべていた。
上位存在というものがなんたるかはわからなかったが、不思議な力を持つ神様みたいな人であることに違いはない。世界に混じり込んだ私という異物を乱暴に放り出すことだってできただろうに、この人は、とても丁寧に説明をしてくれた上で送り返してくれる。
だから私は心の中で、ありがとうございます、という言葉を大事に抱えて。
精一杯の謝意を込めて、頭を下げた。
その人は小さくはにかんで、それから私に手を振る。
「さようなら。二度と会わないことを願っているよ」
私はその言葉に大きく頷き、両手を振って、鳥居をくぐった。
いつも通り、朝、自分の部屋で目を覚ました私は、言いようのない喪失感と安堵感との間に板挟みになり、わけもわからず涙を流したのだった。
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