『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』(並行世界へ渡る力を持つ「私」が元の世界へ帰れなくなった話)
『彼方此方に彷徨う蝶はほぞを噛んだ』1
大人になった今でも忘れられない、鮮明で鮮烈な記憶。
それは、私が十歳のときに足繁く通った田舎町の記憶だ。
そうはいっても、その町は実在していない。それは私の夢の中にだけ存在していて、私は続きものの夢として、その町を頻繁に訪れていた。
始めのうちは、リアルな夢だと思うだけだった。日差しの暖かさも、風の冷たさも、怪我をしたときの痛みも、人に触れたときの感触も、全てが現実と同じだったのだ。十歳という年齢でそれだけリアルな夢をみ続けると、現実との境界線が曖昧になりそうなものだが、私がそうなることは最後までなかった。なにせ、その架空の田舎町には明確にひとつ、相違点があったのだ。
それは、所謂『不思議なこと』が、当たり前に存在しているという点だ。
ある日、春の陽気に踊らされるように、私は公園で名前も知らぬ子どもたちと遊んでいるうちに転倒し、膝を擦りむいてしまった。夢の中だというのに膝はずきずきと痛み、私はぼろぼろと涙を零した。様子を見に来た子どもたちは怪我の具合を確認すると、そのうち数人が全力疾走で近くの林に入って行ってしまった。別段、彼らの所為で転んでしまったわけではないのに、一体どうしたというのだろう。
「あの子たち、どこ行っちゃったの?」
突拍子な行動に困惑した私は、すぐ隣で心配そうにしている男の子に尋ねた。
すると彼は、それが一般常識であるかのように、
「『飛んでけおばさん』を呼びに行ったんだよ」
と言ったではないか。
聞き慣れない言葉に首を傾げていると、彼はなにを勘違いしたのか、
「え、知らないの? おばさん、あそこの林に住んでるんだよ」
などと、的はずれなことを言う。
「お花がいっぱい咲いてるときで良かったね。きっとこの怪我も、きれいに治るよ」
彼の言うことは徹頭徹尾、意味がわからなかった。だから、わからないなりに彼の言葉を噛み砕き、『飛んでけおばさん』が治療しにここへ来てくれるのだろうと解釈するしかなかった。
ほどなくして、林の中に入って行った子どもたちが全員、公園へ戻ってきた。
一人は中年女性の手を引き、それ以外の子はそれぞれ小さな花束を手に持っていた。
「おばさん、この子だよ」
「お花、これで足りる?」
子どもたちは矢継ぎ早に中年女性に喋りかけ、空いているほうの手にぐいぐいと花束を押し込もうとする。花束と言っても、野山に生えている草花で作られたもので、花屋で売られているものとは比べ物になるはずもないお粗末なものだ。
そして、連れてこられた中年女性はといえば、治療道具など一切持っておらず、あらあらまあまあ、なんて言いながら私の元へ来て、私の膝の怪我をじっと見つめてくる始末だ。これではまるで葬式のようではないか、と私が眉を顰めたのも束の間。
「うん。大丈夫、みんなが持ってきてくれたお花で足りるよ」
中年女性は、私の膝を見つめている間にもその手に押し込まれ続けていた花束を両手でぎゅっと握り締め、そう言った。
中年女性は、両手で握った花束を自身の顔に寄せると、深く息を吸い込んだ。花の匂いを嗅ぐにしてはあまりに大仰な動作で、しかし、みるみるうちに花束は萎れていく。これからなにが始まるのか全く推測が立たなくなった私は混乱し、いつの間にか、すっかり涙は止まっていた。
「痛いの、痛いの、飛んでけー!」
中年女性はそう言って、私の膝に片手をかざした。
こんなときに、子供だましのおまじないをするだなんて。
一瞬にして私は怒りの沸点に達した。が、中年女性の手が離れるのと同時に、それもすぐ収まってしまう。
じくじくと血を流していた傷口が、すっかりきれいに治っていたのだ。痛みもなくなっていて、最初から怪我なんてなかったかのようである。
「え? な、なんで……?」
普通、怪我は時間をかけて治していくものだ。どれだけ小さい傷であっても、一瞬で治ることはない。しかし今、目の前で確かに怪我が瞬時に完治した。
「君、初めて見る顔だね」
呆気に取られる私の頭を撫でながら、中年女性は言う。
「私はね、植物から生気を貰って、人の怪我を治すことができるんだよ。また君や、君の友達が怪我をしたら、花束を持って私を呼びにおいで。私はいつも、この先の林の中にある家に居るから」
「う、うん、わかった」
これが、私が夢の中の田舎町で初めて遭遇した『不思議なこと』だった。
夢の中。
だから、非現実的なことが当たり前のように起こる。
十歳の私はそれで納得できたし、同時に、そんな夢をみることができる自分を誇らしく思った。現実の同級生が語る夢の話は、せいぜいが知り合いが出てきて頓痴気な行動をした、くらいのものだ。しかし私のみる夢は、自分の想像力を凌駕するほど魅力的で圧倒的だったのだ。その優越感から、私は何度か、友達に町の話をしてみようかとも考えた。しかし、そんなことをしたら、あの町は消えてしまうのではないか――そんな漠然とした不安感に苛まれ、ついぞ現実で町の名前すら口にすることはなかった。
『飛んでけおばさん』と遭遇して以降、それが合図となったかのように、私は数々の不思議な体験をした。人の言葉を話すカラスと出会ったり、千里眼の如く遠くを見通せる人と話したり、水を自由自在に操る人のパフォーマンスを見せてもらったり。私がこの町に訪れる時間がいつも夕方――ちょうど放課後になる頃――だったこともあって、外で遊ぶ子どもたちに混ざって、現実ではできないような遊びもたくさんした。
そうして日が暮れ、子どもたちが家路に就く時間になると、私はそれとなく輪から外れ、近くの神社へ向かう。特定の神社でなければならないということはなく、鳥居のある神社であれば、どれでも問題はなかった。どういう理屈なのか、神社の鳥居をくぐると私は夢から覚め、現実の世界で朝を迎えるのだ。体力が無尽蔵だった当時の私は、夢の中でたっぷり遊んだからと言って起床後に疲弊することもなく、むしろ一層上機嫌になって登校していた。
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