第8話 その一歩で(下)

―――ニナが危ない‼


 ただ、その思いだけが強く脳内を支配する。


 気がついた時には、もう駆け出していた。


 冬の凍える風が、体を突き抜ける。


 足が地面を蹴る音。


 フェンスに足をかけ、その勢いのまま上部のアルミ部分に左手をつける。そのまま走り高跳びの選手のように体を捻った。


―――地面に足がついたのを感じさせないほどの、滑らかな着地。


 フェンスをすり抜けるほどの速さだった。



 走りながら、先ほどガラスが割れる音がした方向を確認する。


 2階の窓が破られていた。


 あの男を閉じ込めた部屋だ。


 倉庫部屋の中は段ボールが積み重なっていて、窓が隠れていることに気付けなかった。


 もっと念入りに、脳内マップを確認すればよかったという後悔。


 苦虫を嚙み潰したような顔になった俺は、その思いを吹き飛ばすかのように、小さな足を更に速く回した。


 隙間を縫うような速さで移動した俺は、壁に背を向け、窓から保育園の中を覗く。


―――ひどい。その一言では表せない程に。


 脳内マップの警報音が鳴り止まない。

 

 机や椅子は倒れ、荷物棚からは物が散乱し、園児たちが泣き叫ぶ。


 その中に、倉庫部屋に閉じ込めたはずの男が立っていた。


 黒いセーターに、マスクをした格好なのは変わっていない。


 しかし、男は右手に銀色のサバイバルナイフを持っている。そのナイフは、新品のようなギラリとした輝きを見せた。


 男は血走った目で、「お前が四草か!お前が四草 庭菜か‼」と園児たちをナイフで脅す。


 その獰猛な声は、どこか焦りを覚えているような感じがした。


 俺は足音を殺しながら、ピアノが見える窓の方向に移動する。


 男が本棚を倒している間に、窓からグランドピアノの下に転がり込んだ。


「キョーちゃ……う、あ、キョーちゃん!」


 涙でぐしゃぐしゃの顔をしたニナは、男にばれないように必死に泣く声を押さえつけていた。


「ごめん、遅くなった」


 すぐ戻ってくるなんていったくせに、こんなに泣かしてしまっているじゃないか。


 

 ……前世ではこんなことは起こらなかった。


 この事件は、ニナのことを狙った事件。ニナのことをこの保育園に引き留めてしまったことでこの事態は始まった。


 俺が未来を変えてしまったことによって、起こった事件だ。


 自分のせいで、他の誰かをつらい目に合わせてしまっている。


 大切な誰かを、泣かせてしまっている。


 

―――だから、責任は俺が取る。



「ニナ、ちょっと名札貸して」


 自分の名札のクリップを外し、ニナが付けていたチューリップ型の名札と交換する。


 俺はピアノに掛かっていた布団を少しめくり、顔だけ外に出した。


 男の目線がこちらに向いていないかを確認して、慎重に外に出る。


 

 先ほど男は、誰であるか関係無く園児たちに「お前が庭菜か!」と聞いていた。


 つまり、男はニナがどんな見た目をしているか分かっていない。


 そこで俺が考えた作戦はこうだ。


―――


 名札は、敵を欺くためのデコイだ。


 先ほど呼んだ警察が来るまで、少なくともあと五分。


 何とか時間を稼いで見せる!


 ニナがいるピアノから、ゆっくりと距離をおく。


 ……少なくとも、戦う意思があると男に気付かれたらダメだ。


 俺は、近くに転がっていた飾りつけ用の風船を抱きかかえ、地面に座り込む。こうすることで、怯えて風船にすがりついているように見えるだろう。


 しばらくすると、男の足音が俺に近づいてきた。


 マスク越しの、くぐもった声が辺りに響く。


「ん? さっきまでこんな子供いたか? しかも……銀髪⁉」


 男は俺の髪の色に驚いている。


―――良かった。身を隠しながら部屋に閉じ込めたから、俺が閉じ込めたとばれていない。


 もし、ばれていたら……想像したくもないな。


「やっぱり、お前が庭菜か。てこずらせやがって」


 俺の名札を確認した男が、思い出したかのように口を開いた。


「そうか、は誕生日で着飾って、目立つやつが四草の女といっていたからな。」


 俺が銀髪なのを、そう解釈する男。


 だから、ニナが誕生日の今日を狙ったのか。目立つからという理由だけで。


 そんな理由だけで、みんなの楽しかった時間を奪ったのか。


―――許せない。


 それに、『奴ら』という言葉から分かるように、ニナを狙うように仕向けた奴が、他にいるということか?


 そんなことを考えている暇はなかった。次の瞬間、俺の思考は静止する。


 男が、俺の襟元をつかんで持ち上げたのだ。


 俺は風船を抱きしめた姿勢のまま、まるで猫のように軽々と持ち上げられる。


 俺はそのまま、男の左腕に抱きかかえられた。締め付けるような強さだ。


 その状態のまま、男は右手のナイフを俺の首元に押し当てる。


―――ひやりと首元をつたうナイフの感覚。


 怖くないわけがない。


 けれど、俺は大切な誰かをなくす方が怖かった。


 

 俺は一度死んだ時、もう誰にも会えないと思った。


 転生してまた家族に会えた時、やっとそのありがたさに気付けたのだ。


―――もう誰も失いたくない。


 そして誰にも、もう大切な人と会えないという悲しい思いはさせたくない。



 ……俺は死んだあの日、何を望んだ。


 


 俺は前のように、自分の弱さを悔いたまま死にたくない。


 今は、弱かった昔の自分じゃないだろ?

 

 

 今の俺は……俺は、『沙坂 鏡子』だ‼


 

 俺は怖さを吹き飛ばすために、思いっ切り歯を食いしばる。


 男が、園外に止めてある車の方向に、歩き出そうとした時だった。



「キョーちゃんをはなしてっ‼」


 聞きなれた声。


 弱々しい一歩で、近づいてきたその人影。間違うはずがない。


―――ニナ⁉ 


「ああ? なんだお前?」


 驚いた男の動きが、一瞬止まる。


「う……ああ……」


 脅すような男の声に、ニナはへなへなと、その場に座り込んでしまった。


 ニナの名札がないことに、男が気付く。男はすぐさま俺の方に顔を向けた。


「こいつ、四草の女じゃないのか⁉」


 俺の方を見た男の目は、怒りで燃えているようだった。


―――作戦変更だ。


瞬間移動ディメンション!』


 俺は、男のすぐ下に瞬間移動する。


 はたから見れば、なぜか男の腕をすり抜けたようにしか見えないだろう。これで俺が能力を使ったとばれない。


 突然俺が腕からすり抜けたことで、男は戸惑っているようだ。


「逃げるぞ、ニナ!」


 持っていた風船を投げ捨てる。

 

 俺はニナの手を引いて、園庭に向かって走りだした。


「おい! 待てっ!」


 男が追ってくる。その動きは、猛獣のように速い。


―――普通にやったら追いつかれる!


 俺は走りながら、積み木が入った箱を蹴飛ばして床に散らばした。


 「うおっ! こいつっ」


 床に散らばった積み木を踏んだのか、男の顔が苦痛に歪む。


 その隙に園庭にでた俺たちは、右に進んでフェンスの近くの茂みに入る。


 右に行ったと思わせて、フェンスを伝いながら園の周りをぐるりと回り、象の形を模した木製の滑り台に隠れた。


 この滑り台の下はトンネルのようになっていて、丁度2人分の身を隠すスペースがある。


「はあ……はあ……」


 肩で息をする。先ほどナイフを押し付けられた恐怖もあるが、手を当てた心臓がバクバクとうるさい。この体、身体能力は高いが体力がないのかもしれない。


 ニナのほうを見る。ニナはその瞳に、溢れそうなほど涙を浮かべていた。


「あ……あ……キョーちゃん……」


 震える声で、ニナが話し出す。


「ごめんなさい……ごめんなひゃい……」


 その黒い真珠のような目から、ポロポロと涙があふれ出す。


「あのね、ニナね、キョーちゃんをたすけようとしたの。でもね……ニナね、こわくてにげちゃった。キョーちゃんをたすけたかったのに、キョーちゃんにまもられてばっかりだった」


 吐き捨てるようにニナは言葉を続ける。


「ゆうきをだしても、ニナはにげた。キョーちゃんみたいになれなかったっ」


 しゃくり上げるように泣くニナに向かって、俺はゆっくりと話しかけた。


「怖くて逃げたとしても、その勇気は無駄だと思うの? ……私はそう思わないよ」


 怖くて逃げたとしても、戦う意思をまだ持っていれば、その逃げは勝つための布石となる。



 泣いたまま、ぽかんと口を開けたニナ。


「だから大丈夫。あんな怖~いやつ、すぐどっか行っちゃうよっ」


 バアッと手を広げ、ニナを驚かすふりをする。ニナの顔が少しだけ笑ったような気がした。


 いざとなったら、俺が守って見せる。それに……


―――


 

 

 遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてくる。


―――よし。このまま隠れておけば、後は警察が何とかしてくれるはずだ。


 そう思った時だった。


「こんなとこに、隠れていやがったか!」


 男が滑り台の下に、手を伸ばしてくる。


 見つかった!


「逃げろ!ニナ!」


 俺は男の足にしがみついた。ニナはまだ、滑り台の下から動けないままでいる。


「うっとおしい!」


 俺は男に蹴り上げられ、地面に転がる。


「ぐっ!」


 体中に痛みが走る。  


 ……耐えろ、もうすぐ警察が来てくれるはず。


 そこから時間はかからなかった。


「動くな!」


 ちょうど警察が到着したようだ。


 2台のパトカーの中から、警官が4人ほど出て来る。


「クソッ!」


 男は短く舌打ちすると、近くに転がっていた俺をつかみ上げる。


 また左腕で抱きかかえられたと思った時には、もう首元にナイフが当てられていた。


「こいつがどうなってもいいのかっ!」


 これでは、警察も迂闊うかつに近づけない。


 だからといって、俺が抵抗したとしてもナイフで刺されてしまうだろう。


 男はゆっくりと、自分が乗ってきた藍色の車に向かっている。このまま俺を人質にして逃げる気だ。


 警察は持っていた拳銃をゆっくり下げた。


「そうだ。道を開けろ!」


 俺が捕まっていることで、警察は男の言うことを聞くしかない。


 男は園外に置いていた、藍色の車の目の前まで辿り着いた。


 このままだと男に逃げ切られてしまう。


 

 どうすればこの状況を打開できるか。


 まず前提として、この首元に当てられたナイフをどうにかしなければ。


 男は車に乗り込む時、ナイフを持ったままの右手で車の扉を開くだろう。俺を抱えている左腕を、離すわけにはいかないからだ。その瞬間、必然的にナイフは俺の首を捉えていない。


―――隙を作るならそこだ。 


 男が、車のドアに手を伸ばす。


 男の手が、車のドアに当たる瞬間……




―――バチンッ‼


 男の手が電気で爆ぜる。


 突然の痛みに、動きが止まる男。


 すかさず俺は、男の左腕に思いっ切り嚙みつく。


「痛えっ!」


 男が俺から手を離す。


 俺は跳ねるように移動し、すかさず男から距離を取った。


 その隙を、警察が見逃すわけがない。


「捉えろっ!」


 たちまち男は、警官に捕り抑えられた。


 俺は、荒い呼吸を何とか抑えつける。



 ……ほとんど賭けのようなものだった。


 俺が男に捕まり、ニナが俺を助けようとしたあの時、俺は持っていた風船を男のセーターにこすり合わせていた。


 電気は、プラスがマイナスを引き寄せる性質がある。


 風船をこすり合わせることで、風船にマイナス、男の着ていたセーターにプラスの電気がたまる。


 その後、男が車のドアを触ったことで、車の中のマイナスの電子がセーターに移った。


 つまり、意図的に静電気を起こした訳だ。


 

 勝つための布石。


 これはニナが隙を作ってくれなかったら、置くことはできなかった。


 勇気を出して踏み出した、小さな一歩。


―――ニナの、勝つことができたのだ。


 

 男は、パトカーの中に押し込まれて行った。


 それを呆然と見ていると、隣からニナの声が聞こえた。


「キョーちゃん、ぶじでよかったあ……」


 泣きじゃくるニナ。


「また……またこわくてうごけなかった。そのせいでキョーちゃんつかまっちゃた。―――またキョーちゃんにこわいおもいさせちゃった……」


 そういってニナは、わんわん泣き止まない。


 今更なんと言おうと、もう過ぎたことは関係ないのだ。


「ニナの好きな悪役さんは、いっつも前向きで笑ってるんでしょ?」


 そんな泣き顔、ニナには似合わない。


 俺は少しだけ笑いながら、ニナの頭をそっと撫でた。

 

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