5-5:「止めなくちゃ」

 まさか、人生でこんな経験をする日が来るとは思わなかった。


 警察の取り調べ室に連れて行かれ、事件の容疑者として刑事と対面する。それはドラマの中の出来事で、絶対に自分とは無縁であると思っていた。


 壁の真っ白な個室だった。自分の目の前には灰色の机があり、その向かいには教室に現れた黒スーツの男がいる。

 すぐ真横には別の男が立っており、ドアに近づくこともできない。隅で何かを筆記している警官もおり、一人で脱出できる状況でもなかった。


(一時間くらい我慢してくれ。そうすれば、解放されるように設定してある)

 教室から引き出される直前、千晶はそう伝えてきた。


 真意がまったくわからない。

 千晶の邪魔をするつもりなんてない。

 そもそも、これ以上何をする必要があるのか。


 直斗はそっと刑事たちの顔を窺う。向かいの相手も右側の相手も、無言でその場に留まるのみ。取り調べ室にいるというのに、何一つ聞いてはこない。


 連行される途中、不穏な会話をするのだけは聞こえた。

『全然何色かわからない』と、連行した男が口走っていた。他の男も目をこすり、周りの色がよくわからないと話し合っていた。それが毒ガスの影響ではないかと言い合い、その容疑者がようやく見つかったと呟くのが聞こえてきた。


 逃亡手段も存在しない。千晶は有明殺害の時と同じ手法で、警察の人間に『カバー』をかけた。自分が命令を下したあと、再度赤いカードを使われないよう、彼らの心を操作して色彩を認識できなくした。


 だから、ここを出る方法はない。


 頭の中に砂嵐が起きているようで、ただ落ち着かないという気分だけがある。手持ち無沙汰に膝に手を乗せ、漠然とズボンの表面を手で撫でる。


 その途中で、ふと手を止めた。

 ポケットの中に異物感がある。ズボン越しに手を触れてみると、小さな四角い物が入っているのがわかった。


(僕からお守りを渡しておこう)

 宍戸の言葉が脳裏に蘇る。


(何かの時『拘束』を解くのに役立つと思う)

 そんなことも言っていた。その時には、何を言っているのかわからなかった。


 でも、と心の中で呟き、直斗は肺の中を空気で満たす。

 ほのかに、頭の奥に熱が宿ってきた。


 宍戸がこの小道具を渡してきた意図も、今なら理解できる。『拘束』とはなんなのか。それをどうやって抜け出すのか。


 だから宍戸は、こういう状況がやってくることを予見していた。

 つまり、千晶がこのような手段を取らねばならない必然性が存在しているということ。


 考えろ、と自分に言い聞かせた。千晶が今まで行ってきたこと。彼の立場からなら見えること。この町の問題と、動物たちの目的。それを打破するのに必要なこと。


 向かいの男には悟られないよう、必死に頭を巡らせる。千晶の目的は守護霊の件でもう完了したと思っていた。これで動物たちが納得すれば全てが終わるはずだが、それだけでは多分、何かが足りない。


 そこまで考えたところで、一つの風景が浮かんできた。


 夕暮れの空。そこを流れる灰色の雲。町を一望できる静かな場所。

 そして、ほんわりと微笑む一人の少女。


(動物どもを大人しくさせるには、やっぱり誰かが何かを背負う必要があるのかもしれないな。それが一番、綺麗なやり方かもって思うよ)


 千晶の言葉が頭に響く。あの時は単なる感傷だと思っていた。

 でも、他に意味があるとしたらどうだろう。


 認識した瞬間、首の後ろに汗が滲んできた。重い空気の塊を飲み込んだようで、息も苦しくなってくる。ゆっくりと喉を上下させ、直斗は平静を取り戻そうとする。


「止めなくちゃ」

 口の中で呟きを発する。向かいの男をそっと窺い、表情を探る。相手は不思議そうに、かすかに身じろぎをした。


 おそらく、チャンスは一回。絶対にしくじるわけにはいかない。

 直斗はそっと右手を滑らせ、ズボンのポケットに忍ばせる。


 左のポケットにはハンカチも入っている。ちょうどよく色も白。これはよく『滲んで』くれそうだった。左手で取り出し、机の上へと出す。


 ちょうど、手品師の気分だった。あえて片方の手で目立つことをして、もう片方の手で仕掛けを進めていく。

 左手でハンカチを一度広げ、机の上で長方形に畳み直す。その一方で右手のポケットの中でカッターを操作し、小さく刃を引き出す。


 これは、必要な痛みだ。


 覚悟を決め、親指の腹に刃を押し当てる。素早く引くと、鋭さを持った熱が伝わってきた。顔をしかめそうになるのを必死に堪え、傷口の状態をチェックする。


 ぬるり、と指先に熱い液体が触れる。少量ずつだが、次々と滲み出てくるのがわかる。


 これはきっと、千晶でも知らない『情報』だ。

 彼はおそらく、風間という男のその後を知らない。罪悪感もあったろうし、色彩を奪った男がその後どんな状態でいたかも確認はしていないだろう。


 だからこそ、そこに隙がある。


 直斗は素早く右手を引き抜き、目の前のハンカチになすりつける。部屋にいる男たちは、突然の行動に目を見開く。


 口元がかすかに緩んだ。この男たちは現在、全ての色彩が奪われている。だからこそ、『唯一見える色』が出現したら、目を奪われずにいられないだろう。


 直斗は白いハンカチの上に、丹念に指をこすりつけていく。『塗料』が足りなくならないよう、指の付け根を圧迫した。


 そして一分と経たない内に、ハンカチ全体が完全な赤色に染まった。


「すみません。これを、見てもらってもいいですか?」

 男たちに呼びかけ、血の沁み込んだ布を見せる。


 効果はすぐに現れた。ハンカチを覗きこんだ男たちは、目から光を失う。


 直斗は血で染め上げた『カード』を示し、即座に命令を発した。

「お願いがあります。今すぐ僕を、ここから出してください」

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