4-10:それは、哲学的な問題だよ
どうしても実感だけはついてこなかった。
とぼとぼと町を歩き、直斗は気持ちの整理をしようとする。
見知った木造アパートの前に行く。空の橙が灰色に包まれていき、地面に落ちる影の輪郭も淡くなってきている。アパートの建物も薄闇の中にぼんやりとそびえるのみで、窓から漏れる光もない。かつて来た時よりも何倍も貧相に見えた。
この町の中での、一番辛かった記憶。それに触れるのが嫌で、ずっとここへ来るのは避けていた。でも、じきに全てが終わるのだというのなら、もう一度この場所を訪れてみたいと思ったのだった。
これで、ようやく解放される。
心の中で一度呟く。
でもやはり、実感は伴わなかった。
どうやら、実感が湧かないのは自分だけではないようだった。
梅嶋家への道を進む途中で、目の前に立ちはだかる影があった。
見知らぬ中年の女性。買い物の帰りのようで、左手にビニール袋を提げている。初めて見る顔で、近所の人間かどうかもわからなかった。
でも、女が何者かなんて問題ではない。
女性の右肘には一羽のカラスがとまっている。
「オメデトウ、ゴザイマス」
何度も聞いた挨拶の言葉が出てくる。
「おめでとうございます」と直斗も相手に合わせて返す。ボッティチェリはかすかに首を揺さぶった。
「アナタに、シツモンです」
女性の口が開かれる。「うん」と無表情に応える。
「アナタは、このコタエが、タダシイものだと、おもいますか?」
ボッティチェリが羽根を広げ、意見を求める。ガラス玉そっくりの丸い目玉を向けて、まんじりともせずに見上げてきた。
不思議と心が静かだった。今まではこいつらの存在が不安でならなかったのに、こうしている今は何かが通じ合っている気がしてくる。
だからこそ、言うべきことは決まっていた。
直斗はゆっくりと首を振る。
「それは、哲学的な問題だよ」
カラスの両目をしっかりと見据え、そう告げてやった。
自分にはわからない。だから聞いても意味がない。
あとは、お前たちで判断しろと。
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