03 墓前にて
「ふっ……ぐすっ……」
「………」
「……ベル」
子どものように丸くなったフラクネートと、その叫びを受け入れて天を仰ぐベル・ルー・ハットを見つめながら、ホリーは小さくその名を呼んだ。
また、だ。また彼女は同僚の死を受け止められない少女の慟哭を抱き、それを己の責任として抱え込もうとしている。
天を見上げて煙草を吸うそのクセは、彼女が抱えきれない程の悲しみを感じている証拠だ。
涙を流さず、ただただ耐え忍ぶ。
自分では無い、誰かの為に。
「どうして、貴女ばっかり」
誰にも聞こえない程に小さな声で呟く。
ベルという少女が昔からそういう役回りだと、ホリーは知っていた。
※
ホリーとベルは同郷だ。
隣家で、しかも同じ年に生まれた。家族という枠を越えて支え合わなければ生きていけないレーゲルでは、ほとんど姉妹と言っても良い。
誕生日の差だけホリーが姉として扱われたが、大人びていたのはベルの方だった。
何かがあっても慌てることなく淡々とこなし、子どもが言うようなわがままもしない。かといって冷たい性格というワケでもなく、よく笑い、面倒見もよかったので妹たちから好かれていた。
だが怒ること、泣くことはしなかった。
彼女の両親が、死んだ時も。
「………」
土に埋められていく棺桶を黙ったまま見つめるベルの隣にホリーはいた。二人とも今より背が低く、髪も短い。
「ベル……」
心配して声をかける。ベルはホリーの方を見て、その視線の不安げな揺らぎに気付いたのか、それを払拭するように儚げに笑った。
「うん。きっと、寂しくないよ。だってお父さんがいるから」
棺桶の中にいるのは母親だ。だが、父の隣に埋められる。真新しい墓の隣に。
ベルは短期間で両親二人を失っていた。
最初に父親を失った。
ベルの父は鉱山で働いていた。否、働かされていた。
鉱山を運営するのはエルゴバキアだ。だが、実際に労働力として働くのはレーゲル人である。エルゴバキア人は監督だけして、現地で雇ったレーゲル人を安い賃金で働かせていた。
鉱山労働は命を削る行為だった。厳しい環境と肺を侵す粉塵。いつ崩落があるかも分からない。だがなにより、鉱石その物が放つ悪影響が労働者たちを蝕んだ。
パルダイト鉱石。
高効率の燃料資源であり、傷を治癒する効果まである鉱物だが、しかし人体その物には非常に有害な物質。
レーゲルの幸運はそれが大量に発掘され、豊富な鉱脈が地下に存在するということが分かったこと。レーゲルの不幸は、隣国のエルゴバキアがパルダイトに狂っていたこと。
パルダイトの活用法が発見されて以来、エルゴバキアはその虜だった。他の国に先駆けてパルダイトを利用したことで産業革命が起こったエルゴバキアは、熱狂的とすら言える勢いでパルダイト産出地を己の物としていた。それまで碌な資源がないと捨て置かれていた貧しい隣国、レーゲルをほとんど大義名分無しで侵攻するくらいには。
抵抗もできずあっさり征服されて以来、レーゲル人はパルダイト掘りの労働力だ。
パルダイトを掘り、その悪影響に侵され、死に至る。今となってはレーゲルでもっともありふれた死因だ。
ベルの父もそうして命を落とした一人だった。ほとんど家に帰らず鉱山に閉じ込められ、やっと返ってきたと思えばもう足腰が立たなくなったから放逐されただけだった。
最後は家で、眠るようにして死んだ。激しい苦悶の果てに壮絶な死を迎える例があることを考えれば、まだマシな死に様だった。
「でもまさか、一ヶ月も持たないとはねぇ」
「っ!」
戯けるように軽く言ってのけるベルに、ホリーはなんと言って良いのか分からなかった。
父親の死後、母親も後を追うように病気にかかり、死んだ。元より身体が丈夫なタチではなく、心労が祟って一気に衰弱した。父とは違い、こちらは随分苦しげな最期だったという。
決死の看病も、少ない貯金をはたいて買った薬も、全ては無駄に終わった。
これでベルは、孤児になってしまった。
「ベルは……これからどうするの?」
「どうしようか」
頭を掻きながらベルは嘆息する。
「普通の仕事は年齢から無理だし、かといって娼館に行くにも身体が貧相だしなぁ。いっそお父さんと同じトコで働くってのはどうだろう」
「っ、それは駄目っ!」
父親と同じ、つまりパルダイト鉱山。
パルダイトを採掘しその一次加工まで済ませる工場は、常に働き手を募集している。そこならば子どもでもベルトコンベアでの選別係として歓迎された。その代わりやはりパルダイトに触れるので、身体が蝕まれる。工場で働く子どもが成人を迎えた例は、無いと噂されていた。
「駄目だよ、ベル。ベルまでいなくなっちゃう……!」
引き留めようとするホリーは今よりもずっと幼い喋り方であった。というよりもこれがホリーの素で、今の話し方は軍属になってから改めたものだ。だから今もホリーは、それを思い出すと自分がまるで成長していないのではないかと、不安になる。
「嫌だよ、あ、あたし。おじさんとおばさんだけじゃなく、ベルまで死んじゃったら……どうしていいか、分からないよぉ……!」
幼く、ゆえに感情のまま、儚く消えてしまいそうな少女の手を握る。
ポロポロと涙が溢れた。熱い雫が頬を伝ってこぼれ落ちていく。
歪んだ視界の中で金青をした瞳の少女は笑った。
「なんでホリーが泣くのさ」
「ひぐっ、だって……」
ただただ悲しかった。優しかった隣家のおじさんとおばさんがいなくなったことにも。そして幼馴染がそれを静かに受け入れていることにも。
そして疑問が湧く。
「なんで、ベルは……泣かないの?」
どうして自分がこんなに悲しいのに、ベルは涙を流さないのか。
所詮他人である自分がここまで辛いのだ。ベルはもっとずっと悲しいハズ。だというのに、ベルは泣かない。辛そうな素振りすら見せない。それがホリーには疑問だった。
「え、うーん……」
唐突なホリーの質問にベルは頭を掻いた。そして悩んだ後、こう答える。
「……ホリーがもっと泣いちゃうからかなぁ」
「え……」
「だってそうでしょ。わたしまで泣いたら、誰がホリーを慰めるの?」
そう言ってベルはホリーを抱きしめ、その金髪に優しく手を乗せた。
「わたしはさ、十分恵まれてるから。お父さんとお母さんは可哀想だけど、それでも今こうして生きていて、そして隣にホリーみたいな可愛い幼馴染までいる。わたしにはそれで十分だよ」
「そ、そんな……」
そんなワケが無い。ベルが恵まれているなど。
ベルは貧困が溢れるレーゲルの中でも特に貧しい生まれで、生まれてからずっと侘しい思いをしてきたハズだ。二人であまり変わらない背丈は、ホリーこそ遺伝だが、ベルの方は栄養状態が悪かった所為だ。隣人同士で助け合ってきたつもりだが、それでも母親の薬代がかかることと、父親の低賃金は変わらない。ベルは遊ぶことも許されず、小さなうちから働きに出なければならないほどだった。
財産を没収されて落ちぶれたが、それでもまだ名家だった名残を残し比較的生活が安定しているホリーとは違う。
ベルは生まれてこの方、幸せだった時間が無いくらいの人生だったハズなのだ。
それでも彼女は、泣き虫なホリーを想って静かに笑っていた。
「だから、それでいいんだ」
「うぅ、べるぅ……」
ホリーが泣いているから、ベルは泣けない。それが分かっていても弱い自分はちっとも泣き止んではくれなかった。それがホリーは悔しかった。
彼女は優しいから、自分が泣いている間はずっと慰め続けてくれるだろう。その間、ベルは涙を流せない。
それが悲しくて、また涙が溢れる。
「うぁ、うわぁぁぁん……!」
「よしよし」
また、柔らかな手付きで髪を撫でてくれる。
優しくて、悲しかった。
幸い、ベルの身元はホリーのイリキア家で引き取り、ベルが鉱山送りになることは無かった。
しかしその数年後、徴兵令が届き、ホリーは兵役に就くことになる。
その時も、ベルは何も言わずに着いてきてくれたのだ。
※
そして、現代。
まだベルは、誰かの為に涙を堰き止めていた。
「……ほら、もう気は済んだ?」
ホリーはフラクネートの傍に近寄り、その肩を抱いて立ち上がらせた。フラクネートはまだ泣き止んではいなかったが少しは落ち着いたようで、しゃっくりを上げながらも大人しくホリーに身を預けた。
可愛い後輩を支えながら、ホリーはベルへと目配せする。
「後はあたしがやっておくから、アンタは先に戻ってなさい」
「……ん、お願い」
ここに自分が留まってわざわざ傷をほじくる必要は無い。そう判断して、ベルは先に宿舎の中へ戻っていった。
後に残されたのはホリーと未だ泣き止まないフラクネートだ。
「ひっ、ぐず……」
「気持ちは分かるけどね、ベルに当たったって何にもならないでしょ」
「……はい゛ぃ……」
自分でも八つ当たりなのは分かっているのだろう。フラクネートは涙声ながらも頷いた。それでもホリーにそうしてしまった気持ちは分かった。
「気持ちは分かるよ、本当に、ね」
悲しくてどうしようも無い気持ちは、誰かに向けないと自分が壊れてしまう。ホリーにも覚えがある感覚だ。まだマシな生まれ故に下士官スタートだったホリーには、特に。
初めて部下を失った時。自分の指揮が失敗して被害が出た時。助けられるかもしれなかった戦友を見捨てて、作戦を続行した時。
強くないホリーは、深く激しい悲しみに襲われた。
ホリーにはフラクネートの気持ちが分かるのだ。
だってそういう時にホリーを慰めてくれるのは、いつだってベルだった。
「……この習慣、さ」
トードエルの名が刻まれた墓標を見つめて、ホリーは口を開いた。
「誰が始めたか、知ってる?」
「……いえ」
少し泣き止んだフラクネートは首を横に振った。フラクネートは補充兵で、まだ部隊に来てから日が浅い。宿舎の裏手に墓を建てる習慣を彼女が知ったのは、別の小隊員がやっているのを見たからだった。
噂好きのトードエルが話していたことがあった。確か、始めたのは最古参だと。
「あたしなんだ」
「え……」
「どうしても、耐えきれなくて」
その最古参こそが、隊長であるホリーだった。
初めて部下を失った時、ホリーは深く気に病んだ。彼女の命を奪ったのは敵の銃弾だが、指揮していたのは自分だ。
己の責任で、命が失われる。それも他人とは言えない、同じ運命を背負った同胞だ。
自分こそが彼女を死に追いやったのだと、ホリーは発狂しそうな程だった。
そんな時だ。
「でも提案したのは、ベルなの」
「!」
彼女の胸を借りて泣いていた時、ベルは言ったのだ。
『だったら、お墓を建てようよ』
『小さくても、自己満足でもさ』
『弔ってあげたら……少しは、喜ぶのかも』
まるで自分の事のようにベルがそう言ったのを、ホリーは憶えている。
「ベル、先輩が……」
「二人で工兵部隊から廃材を貰って、二人で故郷の文字を思い出しながらナイフで名前を彫って……沈んでいたあたしを励ますために、一緒にそうしてくれたの。……ま、結局すぐに撤去されちゃったけど」
それが、この墓標を立てる慣習の始まりだった。良くも悪くも部下の死に慣れてしまったホリーはもうやっていないが、部下であるレーゲラナたちは真似をして、今も受け継がれている。
葬儀すら贅沢な彼女たちに許された、ほんのささやかな弔い。それは何より、葬送する自分の心こそを慰める為のものだ。
「お別れを言って、泣いて、だからまた、立ち上がれた。あたしがまだ壊れずにいるのは、そのおかげ」
「そう、だったんですか……」
「うん。本当は、人一倍優しい子なの。だから……」
ホリーは、困ったように眉根を寄せて言う。
ベルは泣かない。それが冷血に見えてしまうことは、知ってる。
だけどそれが人の涙を受け止める為だということも、また知っていた。
「あんまり、嫌わないであげてね」
しかし同期の死を受け止めることで精一杯の彼女へ全てを語って、その悲しみの矛先を封じ込めてしまうのは可哀想だから。
ホリーは、そうやんわりと願うことしかできなかった。
フラクネートは、しばらく無言で考えているようだった。
考えて、考えて、そしてやがて、口を開いた。
「……隊長」
「ん?」
「後で、ベル先輩に謝りたいです」
そう言ってフラクネートはホリーの肩から離れ、一人で立って歩く。その瞳から流れる涙はまだ枯れてはいなかったが、眼差しはしっかりと前を見据えていた。
もう大丈夫そうだと、ホリーも頷く。
ホリーが、そしてベルが始めた習慣は、今日も一人の少女の心を救ったようだった。
「うん、一緒に行こっか」
「……そういえば、ベル先輩の顔、どうしたんですか?」
「あれねー、エルゴバキアの馬鹿たちに殴られて……」
「えぇっ!?」
宿舎の裏手を後にして、少女たちは束の間の休息へと戻る。
影の中、墓標はただそこに、静かにあるだけだった。
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