第2話

 ***


「もう少し自分のために使ってもいいんじゃない?」


 日曜日の多くの人で賑わう町の中にいた私に唐突に声を掛けて来たのは、真喜さんよりも少しだけ若く、どこか少しだけ真喜さんと似た雰囲気を持つ女性だった。


 この時の私は、少しだけ疲れていた。

 周りを元気づけるのは、私の仕事。私が手伝えば、みんな頑張れる。幸せな気分に浸れる。だから、私がやらないと。そう少しだけ気負い込んでいた。

 私の魔法を使う対象は、学内の生徒に加え、道半ばですれ違う人もだった。一日で使う魔法の供給量は多く、休日になると更に跳ね上がる。

 そういうことが重なって、私の頭は少しだけパンクしそうだった。


 魔法と言っても無限ではない。誰かに使えば使うほど、許容量はなくなり、肉体的にも精神的にも疲労してしまう。


 だから、唐突に私の前に現れた女性の提案は、今の私にとって少しだけ魅力的に思えた。


 だけど、その提案を素直に受け入れられない理由がある。


「でも、真喜さんからは人の幸せのためにって……」


 魔法を使うときに真喜さんと決めた、私の信条だ。それを覆してしまうのは、今までの私を否定しまうようで怖い。


「自分を幸せに出来ない人が、誰かを幸せにすることなんて出来ないよ。だから、今は自分のために使うべきなんだ」


 けれど、目の前の淑女は微笑みながら、私の言葉を正していく。


 私の魔法は、伝播。視認出来る範囲にいる相手に、自分の感情を伝えることが出来る。私の魔法を受けた人は、エネルギーに満ち溢れて活動出来るようになる。でも、逆に。自分に相手の感情を伝えてもらい、エネルギーを受けることが出来れば――。


 今のような疲労感も拭え、もっともっと行動的になることが出来る。


 そうだ。目の前にいるこの女性も言っているではないか。


 自分を幸せに出来ない人が、誰かを幸せにすることなんて出来ない。私が倒れてしまったら、誰が周りを元気にしてあげられるのか。


「ちょっ、マジ笑えるんだけど、それ!」

「エミ笑い過ぎだって。本当、いつも元気過ぎるんだから」

「えへへ、元気とやる気だけが私の取り柄だからさ!」


 その時、私の耳に二人の女子の会話の往来が聞こえた。どちらも元気に溢れているが、エミと呼ばれた子は傍目から分かるほどに溌溂としている。


 応用のやり方は一度も試したことはないけれど、感覚的に分かっていた。


「……ごめんなさい」


 あの元気溌溂とした活発な女の子には申し訳ないけど、少しだけ拝借します。


 魔法の使い方は、簡単だ。ただ意識を向けるだけ。ただし、いつも注ぐイメージをしているのに対して、今回は受けるイメージで。

 上手く魔法をコントロールして、エネルギーを受けた。


「――はぁ」


 心の奥底から元気が湧き上がる。これで、この後の時間も頑張れそうだ。そして、私が魔法を使ったことで得たことは、エネルギーだけではなかった。


 なるほど、私から伝播される人はこんな気分を味わっているのか。これからも、私の魔法を人のために使っていこうと改めて決意することが出来た。


 そうやる気を奮起させたが――、


「エミ、大丈夫?」


 元気いっぱいだったエミと呼ばれた女の子が、その場に座り込んでいるところだった。「……ぇ」と吐息交じりに、私の口から疑問が飛び出る。


「あー、うん。大丈夫大丈夫、ちょっと立ち眩みしただけ……かな」

「かなって……。それに、あんた相当顔色悪いよ。どうする、今日は帰る?」

「……うーん、そうだね。シズカには悪いけど、念のために帰らせてもらおうかな」

「いいっていいって。映画なんていつでも見れるじゃん。それより、エミの体調が最優先だって」


 エミとシズカという名前の二人組は、言葉通り駅に向かってゆっくりと歩き出した。彼女たちの背中を見つめる私の焦点は、ぶれていた。元気を伝播してもらったはずなのに、満足に立つことが出来なくなり、私はその場に座り込んでしまう。


「……なに、が」


 初めて、だった。


 私は今まで自分のために魔法を使ったことがない。つまり、人にエネルギーを与えることばかりで、受ける側になったことがなかったのだ。プラスの感情を伝播する時、私は一度だってエミさんのように体調を崩すことはなかった。


 だから、何事も起こらない。私の魔法は、ノーリスクハイリターン。そう信じてエネルギーを拝借したというのに、どうして――。


「あらら、本当に使ったんだね」


 他人事のように冷たい声が、私の頭上に降り注ぐ。ゆっくりと顔を上げると、そこには魔女のように口角を歪めている先ほどの女性がいた。私の背筋がゾッと震え上がる。


「魔法使いの使命は、人のために使うことだったはずだよ。真喜から聞かなかったのかい?」

「あ、あなたが使ってもいいっていうから……っ!」


 咄嗟の反論が、私の中でとても腑に落ちた。私はこの人が言わなければ、魔法を人に使うことはしなかった。


「そ、そうだよ。私は今までずっと人のために魔法を使って来たの。自分のためだなんて……考えたこともない。あなたの入れ知恵がなかったら、こんなこと思いもつかなかった。だから、私は悪くなんて――」

「言い訳は見苦しいよ」


 私の唯一の拠り所は、冷徹な彼女の前ではスパっと切り捨てられた。


「普通の人間には、魔法を介して誰かに気力を分け与えるような土台はない。それに、魔法は大っぴらに人に知られてはいけない存在だ。こんな単純なこと、誰かに教えてもらわずとも想像くらい出来るだろう」

「いったい、あなたは……」

「私は憂。憂うという字を書いて、ユウ」


 憂と名乗った女性の表情は、何を考えているか読み解くことが出来ない。


「あんたの叔母には、お世話になったからね。そのお礼に、姪のあんたにアドバイスをしたのさ」

「アドバイスって……。私は、あなたのせいで、無関係の人に……っ!」

「反面教師ってやつさ。あははっ。まさか本当に知らない人のアドバイスを聞いて実践するなんてね。あははっ」


 笑われるようなことなんて何一つしていないというのに、なんて失礼なんだろう。


「ひ、人の言葉をそのまま受け止めたら、わ、悪いの?」


 せめてもの反抗と強がって言葉を吐いたけど、その声はどうしようもなく震えていた。


「いや、悪くはないさ。誰かの言うことを素直に聞き入れることは誰にでも出来ることじゃない。けど、聞くべき相手は選ばないと駄目だ。自分の耳に楽だからと、何も考えずに他人の言葉を受け入れる奴なんて、考えていることを放棄しているのと同じだ」

「……っ」


 彼女の言葉にはどこにも否定できる要素がなく、ただ黙ることしか出来ない。憂と名乗った女性は、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。悔しいけど、その鼻っ面をへし折るようなことは、今の私には出来ない。


 更に、続ける。


「あんたの魔法は、人の感情に直接働きかけることが出来る。それがどれほど恐ろしいことなのか、これで分かっただろう。過度な干渉は、人を傷つけ、己も傷つける」


 言いたいことだけ言うと、私に背を向けて歩き出した。


「あぁ、あと一つだけ」


 憂さんは足を止めることなく、言葉を紡ぐ。


「あんたのせいで、これからもっと多くの人が不幸になるよ。それが嫌なら、本当の意味で魔法を制御出来るようになることだね」


 彼女の仕草に、未練は一切感じられなかった。一人残されると同時、二月の寒空からポツリポツリと雨が降って来た。


 人々の足取りが速くなる。その足取りからは、苛立ちとか不機嫌さが痛いほどに伝わって来る。そういう感情の機微は、不思議と空気で分かる。


 せっかくの休日だ。雨に降られて気分がジメジメとするよりも、晴れやかな気分で締めくくりたい。誰もがそう思うだろう。


 だから、今ここで私は魔法を使うべきだ。


 ――この空気を覆すような、誰もが幸せになれる魔法を。


「……」


 私は、願う。

 魔法を使って、みんなが喜ぶ顔を。

 だけど、私の心に浮かぶのは、顔を青くしたエミさんがしゃがみ込む姿だった。


「……私、は」


 私は私の魔法で、人を不幸にさせた。人のために使う力で。


 自分がしでかしたことを意識したらダメだった。失敗のイメージが頭から消えてくれない。もしも私の魔法が誰かを傷付けるのだと思うと、胸がかき乱された。上手く考えを切り替えられない。


 喉が震え、手先が震え、しまいには全身も震えて来た。この震えは、雨の寒さに起因するものではない。

 そして、私一人置き去りにして、雨の町を歩く人はいなくなった。


「……やだ」


 雨音にかき消されるくらい、弱々しい声を出す。


 私の魔法は、伝播。私の感情を、空気に乗せて伝える。今の沈んだ心も、例外なく同様に。

 こんな想いでいたら、みんなに迷惑が掛かる。


 多分誰一人として私のせいだって思わないけど、私自身が分かっている。


 私のせいで誰かが傷つくなんて耐えられない。早く気分を上げて、みんなに幸せな気分を分け与えたい。分かっていても、心が晴れることはなかった。願いは、叶わない。そうなったら、「私」は用無しだ。


 ――こうして、私は魔法を使えなくなってしまった。

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