第3話

 ***


 特別な個性も才能もなく、誰かと接することにすら一苦労する僕は、学校での居場所が限られている。


 教室の隅っこ、校舎の階段下、図書室の端の席――、そして誰もいない校庭の木陰の中。


 僕以外の生徒は校舎の中で授業を受けているから、独り占めしている校庭はあまりにも静かだった。聞こえる音は、セミが鳴く音くらいだ。ただでさえ暑い天気を凌ごうと、木陰に身を潜めているというのに、そんな努力を嘲笑うかのように鳴いている。


「……」


 僕は溜め息を吐いた。


 今こうして授業を抜けていることも、きっと誰も気にしていない。

 いっそのこと、昨日見たガラクタが本当に宝物で、僕を輝かせてくれればいいのに。そうしたら、皆、進んで僕に話しかけてくれるはずだ。


 そう思いながら、なんて夢物語なのだろう、と自分自身でも思った。それに、もしも宝物を持っていることで周りに認められたとしても、それは僕を見てのことではない。宝物がなくなった瞬間、また同じように見向きされなくなるだけだ。


 一人渇いた笑いを浮かべていると、


「――何やってるんだ、甲斐」


 頭上から落とされた声に顔を向ければ、タイゾー先生がいた。健康的に全身が焼けているタイゾー先生は、半袖のシャツを腕まくりしていた。


「……タイゾー先生、どうして」

「これでも先生なんだから、授業中に生徒が校庭にいたら様子を見に来るのは当然だろ」


 タイゾー先生は胸元を仰ぎながら、迷いなく答える。


 これもタイゾー先生が生徒から人気がある理由の一つだ。いつも子供じみた態度を取りながら、しっかりと人のことを見ている。けれど、タイゾー先生にとっては普通のことようで、「しかし暑ぃな」と、頬に流れる汗を肩を使いながら拭っていた。


「あー、ダメだ。疲れた」


 そう言うと、タイゾー先生は僕の隣にどっしりと腰を下ろした。生徒に混ざって全力でサッカーをすれば、それは疲れるだろう。

 だけど、それよりも疑問点がある。


「え、僕のこと教室に戻そうとしたんじゃないんですか?」

「遠目からすれば、俺が甲斐を説教してるように見えるだろ。別に、授業を受けたくない時に、無理して受けなくてもいいんじゃね」


 とても教師が言う台詞とは思えなかった。自分を一般的な常識に当てはめようとしないタイゾー先生を、遠い目で見つめる。自分に自信がない僕には、タイゾー先生のように自由奔放に行動することは出来ない。


 風を全身に感じるように、タイゾー先生は目を閉じていた。この一瞬を楽しめるような心の余裕が僕にもあればいいのだけど、胸の奥にある微かな罪悪感が許してくれない。


「……どうやったら、タイゾー先生みたいに自信に満ちて生きるようになるんですか?」

「自信なんてねぇよ」

「え?」


 隣を見れば、タイゾー先生は堂々と寝転がっていた。いや、タイゾー先生の行動で自信がないというのなら、自信がある人なんていないんじゃないか。


「いつも俺の言うこと一つに、生徒の人生に影響が及ぶんじゃないかとビクビクしてる。考えてもみろよ、自分の一言で相手の行く道が変わると思ったら、ちょっと怖いだろ」


 想像力を働かせながら、確かにそれは恐ろしいことだと思い、僕は無言で頷いた。


「だけど、先生という立場になったからには、生徒達には無駄に気を遣って、自分の個性を押し込めて欲しくないって、少なくとも俺は思ってる。他の先生はどうかは分からないけどな。だから、出来る限り一緒にはしゃいで、時には教えることを教えて、卒業してからも節度を持った自由な大人になれるように手助けしてやりたいんだ」


 タイゾー先生がそのような思いを抱いて仕事をしていることを、僕は初めて知った。いつも生徒と同じ振る舞いで遊んでいるから、自分にとって楽しいことしかしない人だと思っていたが、それは僕の勘違いだったようだ。


 ちゃんと話してみないと、人は分からない。


「お前はどうなんだ、甲斐」

「え?」

「周りに気を遣い過ぎだ――、とは言わないけど、もっと自分を出してもいいんじゃないのか?」


 セミの煩わしい鳴き声だけが、僕とタイゾー先生の間に響いている。

 僕はどうして自分を曝け出すことをしなくなったのだろう。過去を思い出す、という言葉にするまでもなく、その理由に思い至る。それは、まだ僕自身が、あの出来事を消化しきれていないからだ。


「――怖いんですよ、失敗が」


 そして、長い沈黙の末、僕は正直に打ち明けることにした。


「実は昔の僕って、仁志希や富士彦よりも足が速かったんですよ」


 タイゾー先生は僕の顔を見ながら、黙って聞いてくれている。僕は校庭に目を向けながら、学校の中を世界の全てだと思って駆け抜けた少年期を思い出す。

 誰よりも足が速かった僕は、小学校のヒーローだった。だから、周りの皆は、僕と話してくれていた。


「でも、小学五年の運動会で、僕は失敗したんです。力んで走った結果、思い切り転んで、リレーのバトンを繋げられずに勝利を逃した。しかも、恥ずかしいのが、自分が組を優勝させるって大言壮語していたことなんですよね」


 それに、この年になって、リレーで一位を取ったクラスには金メダルが贈呈されるようになっていた。クラス一丸となって一位を目指していたのに、僕はその期待を裏切ったのだ。今もバトンが僕の手から離れていく感覚、そして、クラスメイトが落胆する顔は、鮮明に思い出せてしまう。


「それから、失敗が怖くなって、必要以上に周りの目を気にするようになっていました」


 自嘲交じりに言った言葉も、タイゾー先生は静かに耳を傾けてくれていた。


「一度失敗したら、取り返せないじゃないですか。だったら、つまらないとしても、静かに暮らしていたい」


 そのような思考が、いつしか甲斐瑛太郎を象るようになってしまった。元気溌溂としていた昔には、たとえ演技だとしても、戻ることは出来ない。

 今まで言葉にしたことのない思いを口にすると、胸の奥にすっと風が通った気がした。言葉にするだけで、こんなにも軽くなる。軽くなっただけで、何かが劇的に変わったわけではないけれど。


「……なぁ、甲斐」

「はい」

「プールの近くで涼もうぜ」

「はい?」

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