第4話

 ***


「……なぁ、甲斐。プールの近くで涼もうぜ」

「はい?」


 タイゾー先生の突然の提案に、間の抜けた声が漏れた。


「今日めっちゃ暑いからさ、プールの近くに行ったら、ここより涼しいと思うんだ」

「怒られないんですか?」

「大丈夫。一応、プールの様子を見て来いって言われるから。放課後行こうと思っていたのが早まるだけだ」


 からっと笑いながら木陰を離れていくタイゾー先生の後を、僕は仕方なくついて行く。ここまで来たら、もうどうにでもなれ、だ。


 しかし、タイゾー先生の目論見は外れ、プールサイドは暑かった。太陽の熱を吸収していて、灼熱の中に放り込まれたのかと錯覚するほどに身を焦がす。涼し気な青色に光り輝くプールが目の前にあるから、余計にそう感じてしまう。


「誰だよ、プールの近くなら涼しいとか言った奴……」

「言っておきますけど、タイゾー先生ですからね」

「まぁ、プールが綺麗なことは確認出来たから、良しとするか」


 タイゾー先生はシャツの胸元を仰ぎながら、しれっと言う。


「あ、そうだ。甲斐、今日ジャージとか持ってる?」

「……一応」

「よし、スマホとか財布とか、そこの物陰に置いてみ」


 言われた通りに、僕はポケットの中に入れていたものを、全部プールサイドの陰になっている場所に置く。念のため、金色の折り紙も一緒だ。


「ここ座って足入れてみようぜ。冷たくて気持ちいいぞ」

「あ、本当だ」


 そう頷くと、「だろ?」とタイゾー先生は、嬉しそうに僕の肩に腕を回した。そして、次の瞬間。


「――ぉわッッ」


 水飛沫と共に、僕の体は水に覆われた。


「な、な、な、何するんですかッ?」


 水面に顔を出すや否や、声を張り上げる。多分、ここ数年で一番大きな声だ。


 僕の声を無視するように、「ハハハッ、めっちゃ楽しいな!」とタイゾー先生は無邪気に笑っていた。そして、ひとしきり笑い終わると、


「なぁ、甲斐。世間一般の目からしたら、授業サボってプールに飛び込むなんて、失敗そのものに捉えられるんだろうな。けど、どうだ。失敗したとしても、命まではなくならない。過度に怯える必要なんてないんじゃないか」

「……」

「大事なのは、今だよ。お前は過去よりも成長してる。未来のことはその時に考える。そうやって考えたら、今だけに集中出来そうじゃね?」

「……そう、かもですね」


 気付けば、僕はもがくことを止めて、タイゾー先生の話に集中していた。

 実際、胸に湧き出るこの感情は、久し振りに感じるものだった。タイゾー先生との他愛のないやり取りを、僕は楽しんでいる。


「瑛太郎もタイゾー先生も、何やってるの?」


 投げられた問いに顔を上げる。そこには――、


「お、仁志希じゃん。お前もサボりか?」

「違います。教室の窓から二人の姿が見えたから、腹痛いフリして様子見に来たんですよ」


 ワイシャツを捲りながら、仁志希は淡々と答えた。


「そっか、心配してくれてサンキューな。でも、ちょうど良かったよ。プールの汚れ具合を確かめるために来たんだけど、足滑らせてさ。悪いんだけど、仁志希のジャージ貸してくれない?」


 仁志希の視線が、僕に注がれる。少しだけ僕より背の低い仁志希が、今はやけに大きく見えた。きっとプールから見上げているからだろう。でも、嫌な感覚ではない。


「あ、僕のジャージは下駄箱のロッカーに入ってるんだけど……」

「だってさ。甲斐と仁志希のジャージを持って来てくれないか? で、仁志希のジャージは一時的に俺に貸してくれ」

「はぁ、仕方ないですね。ちょっと待ってて」


 そう言うと、炎天下の中、仁志希は校舎に向かって駆け始めた。「ちゃんと洗って返すから、よろしくなー」とタイゾー先生は仁志希の背中に声を掛ける。「あ、ありがとう」と僕も言うと、仁志希は無言で手を上げた。


「――こーんな感じでさ」


 仁志希を見送ったタイゾー先生の口から声が漏れ、僕は「え?」と聞き返した。タイゾー先生は、白い歯を見せている。


「こんな感じで、失敗した時は意外と誰かが助けてくれるもんだ。だから、少しずつ挑戦していったらいいんじゃないか?」

「……そう、ですね」


 反論の余地はなかったから、素直に同意した。プールに飛び込む前の僕は、必要以上に怯え過ぎていたのだろう。もう少し、全身の力を抜いてもいいのかもしれない。


「あ、そうだ」


 思い出したように、タイゾー先生が言う。


「一応分かってるとは思うけど、一人で勝手にプールに飛び込むなよな」

「ふふっ、失敗してもいいんじゃないんですか?」

「それはそれだ。常識かつ自分と周囲の身に危険がない範囲でなら、全然止めねぇよ」


 仁志希が来るまでの間、僕は重力を手放して、プールに浮かぶ。燦爛と輝く太陽が、どこか心地よかった。

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