影の話

青いひつじ

第1話

今日は、私の影の話をしようと思う。

私の影は話すことができる。

私の頭がおかしくなって、幻想を見ているわけではない。実際に会話することができる。


影が現れたのは、30歳の誕生日の夜だった。

はっきりと覚えている。

世界から逃げるように、ひとりベッドに沈んでいた夜だった。


「ねぇ」 


少年の声がして、飛び起きると、かすかに見えた私の影がひとりでに動き出したのだ。

影は、その正体について教えてくれなかった。私に当てて欲しいと言った。


私は影と呼ぶことにした。正真正銘、影だからである。影は、私のことを君と呼んでいる。なんだか生意気である。



影は、まるで自分の操縦の仕方を知らない子供のようだった。

少しぶっきらぼうで天邪鬼で、素直じゃなかった。本当は甘えたいのに、私を突っぱねたりする時もあった。

寝ている時、誰かが泣いてるような音が聞こえたことがあった。影が泣いていた。

影は自分を誰かと比べ、ビクビクしているようにもみえたが、表には出さなかった。

臆病で自意識過剰で、実にめんどくさい性格である。

しかし私は心のどこかで、この少年を知っているような気がしていた。


今になってやっと、その理由が分かった。



影との不思議な生活も、今日で10年になる。

私はいよいよ、影の正体が何なのか気づいていた。

これがいいことなのか、悪いことなのかは分からないが、影とお別れしなくてはいけない時間がやってきたようだ。



「影、お待たせ」


「うん。遅かったね」


声色でなのか、表情でなのか、影は私がこれからする話を察しているようだった。


「ごめんね。ずいぶんと時間がかかってしまった」



私は"大人"になった。

世間ではまるで、物分かりの良い大人になるのは悲しいことで、好奇心や探究心を忘れないでいることが美しいことのようにされている。


だから、私は、ずいぶんとつまらない大人になってしまったと思っていた。

明日の楽しみなんて思いつかない、悲しい大人になってしまったんだと、ずっと思っていた。


大人になって良かったことって何?

お金が自由に使えること?

時間が自由に使えること?

違う。

大人になんて、ならなきゃ良かった?

いや、違う。



「最初の頃、影に昔話したことあったよね。大人になったって、いいことなんかないって」


「うん」


「でも、それは違ったよ」


「もしかして、僕の正体が分かった?」


「うん」


変な少年の霊にでも取り憑かれたかと思っていたのに、君のことがこんなに愛しくなる日がくるなんて、思ってもみなかったな。



「影。いっぱい辛いことあったと思うけど、よく頑張った。何もうまく行かないし、失敗して、気持ち踏み躙られて、悔しくて1人で泣いてたけど、よくここまで来た。本当に凄いよ」



影は、その正体を見事言い当てたことに驚いたのか、すぐには返事をしなかった。



「‥‥本当に分かったんだ」


「うん。10年もかかったけど、ちゃんと分かった。いいことあったよ。大人になって」


「そっか」



真っ黒の影が、私には少しだけ笑っているように見えた。



「じゃあ、さようなら」


「うん。影、ありがとう」



私が手を振ると、影は少し遅れて手を振りかえした。

きれいな夕焼け。

まるで自分と友達になったようだ。


それからずっと、影の声が聞こえることはなかった。

























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影の話 青いひつじ @zue23

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