1-4
――数時間後。ディオンの屋敷の応接室で、エミリアはガチガチに
(………………屋敷って)
そこは、
「お茶でございます。
メイドに出された紅茶から、優美な香りと湯気が立ち上っていた。
(あの男、ただの野盗じゃなかったの!? このお屋敷、どう見ても領主
今のエミリアは、
かれ、
「待たせたな」
応接室に入ってきたディオンの姿に、エミリアは目を
今の彼の
「あなた一体、何者なの!?」
「名乗りが
彼はゆったりと歩み寄り、エミリアの
「俺を雇いたいんだろう? 詳しい雇用条件を相談しよう」
一方のエミリアは、すっかり平静を失っていた。
「ちょ、ちょっと待って、あなたが王弟殿下ですって?
「ところが冗談じゃないんだ、これが」
ははは。と快活に笑う彼を見つめ、エミリアはパニックに陥っている。
(そういえば……)
エミリアが思い出したのは、聖女カサンドラに
……ということは。目の前のこの人は、本当に王弟殿下なのだろうか。
「でも! それならなんで、野盗の恰好で
「竜狩りは俺の
うっ。と声を詰まらせるエミリアを、たしなめるようにディオンは言った。
「砂漠では、あの恰好が一番機能的なんだ。というか、砂の民と〝野盗〞を安易に同一視するのは気に入らないな。実際に砂の民に襲われたことはあるのか?」
「…………ないですけど」
「だったら、
確かに、偏見は良くない――エミリアは肩を落とした。
「何はともあれ、俺が
「結婚相手? ……なんの話をしてるんですか?」
「報酬の話だよ、『君が欲しい』と言ったじゃないか。俺と結婚してくれ。
はぁ!?とエミリアは
「何それ最低!! 王弟のくせになんてふしだらな……」
「ふしだらか? 契約結婚の話だぞ? 俺は〝用心棒〞として君に雇われ、報酬として君が俺の妻役を演じるんだ。悪くない話だと思うんだがな」
要するに、形ばかりの
「王弟妃として最低限の公務はしてもらうが、それ以外は自由に過ごして構わない。一方で、俺は用心棒としてあらゆる危険から君を守ろう。君の過去や
〝密入国者〞を強調して、ディオンはニヤリと笑っている。
「……それって、
「そうだよ。普通に考えて、王族が密入国者を
ずるい。と言いたかったが、王弟相手に言える言葉ではない。彼がなぜ形ばかりの妻を求めているか知らないが、ともかくエミリアは〝都合の良い女〞として適任らしい。
「契約期間は最低七年。あとは
(都合よく転がされてる気がするわ。でも確かに、条件は悪くないかも……)
彼の提案を拒んでレギト聖皇国に送り返されるより、王弟妃を演じて生きるほうがマシだ。しかも身の安全は保障されるという。契約期間が七年というのも、替え玉として十年も働いてきたことに比べれば、むしろ短い。
(
そのときノックの音が響き、一人の侍女が入室してきた。気を失っていたダフネが目覚めたという報告を聞いて、エミリアは安堵の笑みを零す。
「従者様は、お
報告を終えて侍女が退室したのち、ディオンが声をかけてきた。
「従者のことが心配だろ? 顔を見せてくるか? 俺との話は、あとでも構わない」
エミリアは、ダフネのことを考えた。隣国の王弟と契約結婚をするなどと聞いたら、ダフネは目の色を変えて反対してきそうだ。だったら――。
「いいえ。殿下とのお話をきちんと固めたあとで、ダフネに説明しに行きます。……私があなたの妻になれば、ダフネの安全も保障してくださいますよね?」
当然だ、と
「でしたら、私は異論ありません。契約しましょう、ディオン殿下」
*****
――場所は変わって、レギト聖皇国。エミリアが脱獄した翌朝のことである。
そろそろ報告が来るかしら。と思っていたら、侍女達が緊張の
「カサンドラ皇女殿下、皇帝陛下がお呼びでございます! 大至急で、とのことでした」
顔をこわばらせる侍女達とは対照的に、カサンドラは
「あら、そう。分かったわ。それなら、すぐに
「今朝は随分と
侍女に
「まるで、罪人が逃げ出したような慌てぶりねぇ……うふふ」
兵士達が誰を探しているのか、カサンドラはよく知っている。――なぜなら、
(エミリアが消えて、清々したわ。あんな子、
愉悦に
――バカで便利な子。カサンドラは、出会った頃からエミリアをそう思っていた。
エミリアが髪を染め、変装しながら先輩聖女のもとで仕事を学ぶ姿は滑稽だった。このまま一生替え玉として使い
『カサンドラ様、私も早く一人前になりますね。そしたら一緒に頑張りましょう!』
エミリアにそう言われたとき、この子は筋金入りのバカだと思った。エミリアがよく働くのも誰に対してもフレンドリーなのも、愚かさゆえに違いない。……あの
(本当にバカな子ねぇ。ダフネは専属侍女なんかじゃなくて、
ダフネは侍女
エミリアは、皇城のはずれに
(エミリアが
聖女は人々に崇拝される尊い存在だが、その仕事は楽ではない。この広大な大陸西部にたった九名しかいないのだから、激務となるのは当然だ。様々な病やケガに苦しむ人々を、日夜救い続けなければならない――たとえ老いても、
人間は、生まれる場所を選べない。王侯貴族に生まれた者はその地位で
聖女の
(でも、わたくしは普通の皇女に生まれたかった。
カサンドラは、聖女の仕事を嫌がった。皇帝に「聖女の仕事に
だから「背恰好も
……だが。それでもまだ、カサンドラは自分の
(わたくし、やっぱり聖女なんて嫌!! ……もし聖女に生まれなければ、
幼い頃のカサンドラは、隣国の第一王子ディオン=ファルサス・ログルムントに
当時のカサンドラは、
「ディオン殿下だって、わたくしと結ばれたかったに違いないわ。だって、あんなに優しい笑みを、いつもわたくしに向けてくださっていたもの。ああ、わたくしが聖女でなければ、ディオン殿下のもとに嫁いでいって差し上げたのに!」
さんざん泣いて
レイス・ドルードは美貌と誠実さを兼ね
月日は流れ、カサンドラもすでに十八歳。来年にはレイスと
――
その日、レイスは暗い顔をしていた。週に二、三度は彼と皇城で二人きりのディナーを楽しむことにしているのだが、今日のレイスは顔色が悪い。どうしたのかと問うても、彼はなかなか答えなかった。やがて絞り出された言葉は……。
「…………カサンドラ様。あなたは、本当に聖女カサンドラ様なのでしょうか?」
ワイングラスを取り落としそうになったカサンドラは、平静を
「あら。それはどういうことかしら、レイス?」
「実は……僕は昨日、神殿で働いておられるあなたに会いに行ったのです」
「まぁ。聖務中は気が散ってしまうから、来ないでとお願いしていたでしょう?」
「済みません。ですがどうしても、あなたとお会いしたくて……」
彼は、
「お疲れのあなたは、ソファで
「それで……どうなさったの?」
「
罪を打ち明ける者のように、レイスは膝をついて手を組み、カサンドラを見上げた。
「やましい気持ちではなかったのです。ただ一目、眠るあなたのお顔が見たくて。それで、あなたのお顔にかかっているヴェールを、ですね。……めくってしまいました」
――レイスったら、なんということを!! と、カサンドラは青ざめた。だがしかし、レイスのほうがもっと真っ青になっている。
「ヴェールの下の顔は、別の女性でした。
大ピンチだ。
カサンドラは
「そ、それはきっと、ニセモノですわ!! 実は最近、わたくし体調が悪くて病欠してましたの。その隙を突いた
――その結果が、神殿前広場での
宗教行事を執り行っていたエミリアを、カサンドラの騎士達が
女騒ぎは瞬く間に皇都中に広がっていき、皇帝や皇后、皇太子は
「カサンドラ! なぜエミリアのことを国民の前でばらしたんだ!?」
「エミリアが悪いのですわ!! エミリアが仕事中に
体を暴かれてしまったのです。だからわたくしは、やむなく」
逆上したカサンドラの言葉を、皇帝達は
アも、ヴェールをめくったレイスも問題だが、何よりの問題は……。
「しかし、他にいくらでもやりようはあっただろう! 何も公衆の面前で……」
カサンドラは声を詰まらせた。しかし、やってしまったことは取り消せない。
「ともかく、エミリアを使い続けるのは危険ですわ。
だが皇帝らは、首を縦には振らなかった。
「エミリアにはまだ利用価値がある。ほとぼりが冷めたら、また使えるはずだ」
バカにされた気分になった。愚かで卑しい
カサンドラにとって、エミリアは危険分子だ。一刻も早く
「ダフネ。エミリアを脱獄させなさい」
彼女はダフネを呼び出して、大金を
「父上はエミリアを処刑する気はないそうよ。エミリアにまだ利用価値があると思い込んでいるの。……でも、そんなの許せない。だから逃がして、
ダフネの灰色の目が、いつもよりさらに鋭くなった。
「できるでしょう? 〝皇家の影〞である、お前なら」
ダフネは何も答えない。〝皇家の影〞は、
「うふふ、分かっているわよ、お前は父上の犬だから、私の指示は受けないと言いたいのでしょう? だから特別に、お前にはたっぷりご
ダフネは顔から表情を消し、しばしの沈黙を挟んで「
「自由になれたと喜ばせてから、絶望の
「承知しました。準備を整え、明日の晩に決行いたします」
ダフネは
――そして現在に至る。執務室へ入室すると、困惑した様子の両親と兄が待っていた。
父の話によると、
「信じられん。まさかダフネが、
「あなた。こんなことが万が一、法王猊下に知られたら――」
「いえ、母上。法王の耳に入るおそれはないでしょう。法王がいるのは、
深刻そうな家族の話に、カサンドラは微笑しながら割って入った。
「逃げてしまったものは仕方ありません。でも、
「随分とご機嫌だが、もしや脱獄にお前が一枚噛んでいる訳ではないだろうな?」
「まさか! 〝皇家の影〞を、わたくし
実際にはお金でコロリと動かせたのだが、
「……お前に、本当に聖女の役目が務まるのか?」
「勿論です。むしろそれが、本来あるべき形ですもの」
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