(9)――「ワタシは、学校から逃げたのだ」

「ワタシのお父さんはドイツ人で、お母さんは日本人だ。いわゆる国際結婚、というやつだな。オペラ歌手であるお父さんが来日したとき、街で偶然見かけたお母さんに一目惚れしたのがきっかけだったらしい。

 二人の結婚に反対する人は誰も居らず、幸福と祝福に満ちた式であったと、母方の叔父さんは言っていた。実際、幸せだったのだろう。何年も前に叔父さんに当時の写真を見せてもらったことがあるが、そこに写っていた二人はとても幸せそうだった。ワタシが見たことのない笑顔を浮かべていて、当時は本当に驚いたものだよ。

 幸せいっぱいで始まった二人の関係が悪化し始めたのは、ワタシが生まれて数年が経った頃らしい。

 え? どうしてそんな昔のことを知っているのかって? さすがのワタシも覚えているわけではない。全部、お母さんから直接聞かされたというだけだ。

 話を戻そう。

 悪化の原因は、お父さんの海外出張の多さにあった。

 お父さんは仕事でいろんな国に行くから、日本語も多少は話せた。だから家は日本に構えたのだが、お父さんは不在にしていることのほうが多かった。

 当時のワタシはお母さんが側に居たから寂しくなかったし、たとえ離れていても、世界で活躍しているお父さんを誇らしく思っていた。

 けれど、お母さんはそうは思わなかったらしい。お母さんは何故か、お父さんが海外で浮気をしていると信じて疑わなかった。

 そんなお母さんに、お父さんは全ての情報を開示した。ケータイの履歴、アドレス帳、もらった名刺。全部仕事関係や友達とのものばかりで、浮気の証拠と言えるようなものは出てこなかった。当たり前だ、お父さんは浮気なんてしていないのだから、そんなもの、出てくるわけがないのだ。

 けれどお母さんは、お父さんを疑い続けた。絶対に他所で女を囲ってるって、怖い顔をして言っていた。ワタシがお父さんはそんなことをするような人じゃないって言っても、お母さんは聞く耳すら持ってくれなかった。

 きっとお母さんは、寂しかったんだと思う。大好きな人と一緒に居る約束をしたのに、ずっと一緒に居られないことが苦痛になってしまったのだろう。ワタシから見たお母さんは、いつも孤独感に苛まれているようだった。

 家に帰って来る度にそんなお母さんの相手をしていては、さすがのお父さんも我慢の限界だったのだろう。何年も言い争った末――今年の二月にようやく離婚が成立した。

 最後まで揉めていたのは、どちらがワタシを引き取るかということだった。ワタシは一人っ子で、だから余計に協議に時間がかかってしまったと言っていた。

 ワタシは、お父さんに付いていきたかった。離婚したらドイツに帰るというお父さんに付いていきたかった。

 けれど最終的に、ワタシを引き取ることになったのは、お母さんだった。

 日本で生まれ育ったのだから、日本に残る自分が引き取るべきだとお母さんは言っていたけれど、本音はそうじゃない。ワタシを引き取ることができれば、慰謝料に加えて養育費を請求できる。だからお母さんは、高額で腕の立つ弁護士を雇って、ワタシを勝ち取ったのだ。

 離婚が成立してからは、あっという間だった。

 気がつけば、家族三人で過ごした家は引き払われて。

 お父さんは、ドイツへ帰って行ってしまっていた。

 そうしてワタシは、お母さんに連れられてこの村へとやって来た。この村は、お母さんの生まれ育った場所だったのだ。

 お母さんの家は立派な日本家屋で、そんな広い家におばあちゃんが一人で住んでいた。おじいちゃんのお葬式以来だから、三年ぶりの再会だった。

 おばあちゃんは、疲弊しきっていたワタシたちを温かく迎え入れてくれた。お母さんはもちろん、ワタシもだ。大人に優しくしてもらうのは久しぶりだったから、最初のうちは戸惑ったのだけれど、おばあちゃんは変わらずワタシに接してくれた。

 おばあちゃんは、本当に優しかった。どこへでかけることもなく、一日中家でお酒を飲むお母さんにも、『きっと離婚のことで疲れてしまったんだね』って言って、困ったように笑っていた。

 四月になって、ワタシは新しい学校へ通うことになった。

 真新しい制服を着て、新品の通学用鞄を持って、ワタシは一人で登校した。馴染みのない土地で、知り合いは誰も居ない。すごく緊張した。だけど同時に、前みたいにすぐ友達はできると信じて疑っていなかった。だって前の学校では、ワタシにもたくさん友達が居たのだからな。

 だけどそんなのは、ただ楽観的になっていただけだと思い知らされた。

 担任の先生に連れられて教室に入った途端に、異物を見る視線が集まるのがわかったよ。

 確かに、ワタシは人目を引く要素が多いのだろう。背は周りより頭ひとつぶん高いし、顔立ちもみんなとは少し違う。だからだろう、クラスのみんなは、ワタシに声をかけるきっかけに、そればかりを持ち出してきた。英語で喋ってみてとか、海外に住んでいたことはあるのかとか。はじめのうちはワタシも、頑張って答えていたのだ。……だけど、ワタシはクラスに打ち解けることができなかった。

 異物を見る目、と言ったけれど。あれは見えない境界線を目の前に引かれているような気分になるのだ。ワタシだけが『別なもの』として扱われているのが、とてもよくわかる。クラスでただ一人、『他所から来た人間』として孤立しているのだ。しかもそれを、みんな無意識下にやっているというから質が悪い。

 アキは周りの対応に息苦しさを感じていると言っていたな。それと同じとは言えないが、ワタシも学校に居るのが苦しくなってしまった。次第に学校を休むようになり、六月の末には完全に不登校になっていた。

 ワタシは、学校から逃げたのだ。学校へ行かなくなってから、家には常に三人が居ることになった。ワタシは外が怖くて外出を拒否していたし、お母さんはずっと家でお酒を飲んでいた。おばあちゃんだけは、畑仕事や近所の付き合いで外出する機会が多かった。

 ……お母さんは昔から、お酒を飲むと、人が変わったようになるのだ。大声で笑ったり、怒鳴ったり、泣いたり。感情表現が大きくなるようなのだ。それが離婚してからより一層激しくなっていった。いきなり叫び声を上げたかと思うと、怒鳴り散らして壁に頭を打ち付けたりすることもあった。

 ある日、お母さんがワタシを殴った。

 何度も何度も、本気で殴られた。

 ワタシがお父さんに似ているのが気に食わない、と言っていた。そんな理由で、ワタシは痛みがわからなくなるまで殴られ続けた。

 このときばかりは、ワタシはお母さんが怖かった。ぼろぼろになった身体を引きずって、ワタシはおばあちゃんに助けを求めた。普段はすごく優しいけれど、おばあちゃんならお母さんを叱ってくれると思った。だって暴力はいけないことだ。いけないことをしたら、怒られて当然だろう?

 だけど。

 だけどおばあちゃんは、お母さんを怒らなかった。怒ろうともしてくれなかった。

 おばあちゃんは、お母さんがそんなことをするはずないって言って、聞く耳を持ってくれなかった。どころか、ワタシが周りの気を引きたくて自分でやったことなのだろうと宥められた。そんなことをしている暇があるなら学校へ行きなさい、とも。

 ……。

 もうこの家には居られないと思った。

 だけど、学校へも行けない。

 居場所がなくて、息のつける場所が欲しくて。

 だからワタシは家出して、ふらふらとあてもなく歩いた。

 そうして偶然、この神社を見つけたのだ。

 お金は少し持っていたから、食料と救急用品は確保できていた。それが尽きるまでの間で良いから、一人になって考えてみようと思ったのだ」

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