(10)――「コマ一人ぐらいなら、こっそり家に入れても、ばあちゃんにもバレないと思うけど」
「アキを見つけたのは、それからすぐのことだった。自販機で飲み物を買おうと思って山を下りようとした先で、上級生たちに襲われているアキを見つけた。……あとは、アキの知っている通りだ」
ジュースはもう飲み干しているだろうに、少女はそれを大切そうに握り直した。
「……そっか」
少女の話を聞いて、僕はそんな言葉しか出せなかった。
いや、世間一般ではこの場で『辛かったんだな』とか『大変だったんだな』とか、そういう言葉をかけるべきであることは、なんとなくわかっていた。けれど僕にはどうしてもそれが上辺ばかりの言葉に思えてしまって、喉のところで詰まって潰れてしまった。
「話してくれて、ありがとう」
潰れてしまった言葉の代わりに、僕はそう言った。
少女の事情を知ったところで、僕にできることなんて限られているだろうけれど。
それでも僕は、この少女のために力になりたいと思った。
「……その、傷は、まだ痛むのか?」
「いいや、もう痛くはないぞ」
やっぱりか、と少女は困ったように笑う。
「お面を付け替えたとき、アキの様子が少しおかしかったからなあ。まだ痣が残っていたのだろうとは思ったのだ。もう消えているとばかり思っていたのだが、あはは、見苦しいものを見せてしまったな。申し訳ない」
「コマがそれを謝ることはないだろ。無理に茶化す必要もない。悪いのは、お前を殴ったお前のお母さんだ」
「……そうだけど。だけどワタシは、お母さんを悪者にしたくない。おばあちゃんも、それに、お父さんだって」
「……」
「ワタシはみんな大好きでいたい。事情はどうあれ、ワタシたちは家族なのだ。嫌いになんて、なりたくない」
「……」
「こんなことになってしまうのなら、いっそのこと、ワタシなんて居なければ良かったんだ」
家にも学校にも居場所のない少女は、絞り出すような声で言う。
「ワタシはワタシが嫌いで仕方がない。……もう、どうしたら良いのかも、わからない」
少女が明確な答えを求めていないことは、わかっていた。
単純に、吐き出してしまいたい感情がそれなのだ。
自分はこれからどうしたら良いのか。
いっそのこと、居なくなってしまえたら。
延々と繰り返される自問自答に、答えはない。どれか正解かもわからない。
「僕の両親と兄さんが、今年の三月に交通事故で死んだって話をしたの、覚えてるか?」
「……ああ、覚えている」
だから僕は、少女に話す。
僕なりに、現時点でひとつの答えだと思っていることを。
それが少しでも少女の息苦しさを解消するヒントになればと、願いながら。
「みんなが車に轢かれて死んだその日は、僕の小学校の卒業式だったんだ。小学校へ向かう途中、ダンプカーにぶつかられて、みんな死んだ」
隣で、少女が息を呑むのがわかった。
それでも、この少女になら話しても大丈夫だ。
一切の迷いもなく、そう思えた。
「僕もそのとき一緒に死んでしまえたらどんなに良かったか。僕だけ死ねば良かったのにって、今でも考える。あの日以来、それだけ僕は僕を嫌いになった。だから僕はお前に、自分のことを好きでいろ、なんて綺麗ごとは言えない。嫌いなものを無理に好きになる必要はないって、僕は思う」
だけどさ、と続ける。
「全部は無理でも、一部分だけなら好きになれるんじゃないか?」
「一部分?」
「そ」
頷いて、僕は自分を指差す。
「たとえば僕のこの目つきの悪さだけど。これ、母さん譲りなんだ。卑屈な考えかたは父さんとそっくりらしいし。口が悪いのは、兄さんとしょっちゅう口喧嘩して鍛えられたからだ」
どれもこれも、端から見れば欠点なのだろう。
だけど今の僕には、この欠点ひとつひとつが大切な欠片だと思うのだ。
「それに、この目をコマは格好良いって言ってくれた。僕は今まで以上に、この目を好きになれると思う。だから、コマの母さんがコマの父さんに似ているコマを嫌ってるからって、コマが自分を嫌いになる必要はないだろ」
「アキ……」
未完成で不完全な僕らは、今日も息苦しさを抱えて生きていく。
田舎の村という閉じた世界で、少しでも息ができるように工夫を加えながら。
「僕らは人間だ。カミサマじゃないんだから、丸ごと全てを愛するなんて、土台無理な話だ。人間は完璧になんてなれない」
「だけど……だけど、アキ」
縋り付くように、少女は僕の裾を掴む。
「いくらワタシがワタシを一部分でも肯定しようとしても、誰もそれを許してくれない。ワタシはずっとクラスでは『別なもの』で、お母さんにとっては『大嫌いな男の面影を持つ娘』でしかないのだ。ワタシには、ワタシを肯定できる居場所なんて――」
「それなら」
袖を掴む少女の手に、僕の手を重ねる。
「僕がそれを許す場所になる」
お面に隠れて見えない少女の目を見据えて、僕は言う。
「お前が自分を好きになれなくても、僕が好きでいる。周りから浮いてしまうっていう外見も、離婚した両親が大好きで嫌いになりたくないっていう感情も――全部ぜんぶ、僕が大事にする。だから、お前の好きなものを我慢なんてするな」
全ては有限のものなのだ。いつ目の前からなくなるかわからないのだから、大切にできるうちに大切にしないと、絶対にあとで後悔することになる。僕はそれを、とてもよく知っている。決して彼女に同じ思いはしてほしくなかった。
「……良いの?」
掠れた声でそう言った少女の表情は、初めて見るものだった。
少女はお面の下にもうひとつ、笑顔で本当の顔を隠していたのだ。笑顔が感情を隠す手段になっていたことが痛々しく思えて、僕は即座に、
「うん。良いよ」
と答えた。
「お前の居場所になれるのなら、僕はそうしたい」
「……うん」
少女は僕の言葉を咀嚼するように、ゆっくりと頷く。
「……アキの言葉は、すごいな。魔法みたいだ」
「魔法?」
この辺がな、と言いながら、少女は胸元に両手を当てる。
「今、すごくここがぽかぽかしている。えへへ」
「それは、良かった」
時差的にやってきた得体の知れない恥ずかしさに、僕は口元を隠しながら答えた。
「アキ」
「なに?」
「ダンケ」
「それは、『ありがとう』って意味だっけ?」
「うむ」
「『どういたしまして』は、なんて言うんだ?」
「ビッテシェーン、だ」
「それじゃあ、うん、ビッテシェーン」
「えへへ」
気がつけば、日はとっくに沈んでいた。空は紺から黒へ変貌を遂げ、そこに星々を散らしている。
「もうすっかり夜だな」
暗闇に慣れた目でも、少女の姿を捉えるのは難しい。
「そうだな。よろっと帰らないと」
言って、僕は手元に注意しながら荷物をまとめ始める。
「一応訊くけど、コマはどうする?」
「まだ帰らない」
「そっか」
まとめた荷物を持って、少女のほうを見る。
すると少女は、きょとんと口を開いて僕を見つめ返していた。
「なんだよ」
「いや……、その、家に帰れって言わないんだなって思って。面食らっていた」
「言って欲しいのか?」
「いいや」
「言ったところで、帰る気はないんだろ?」
「うむ。心の準備が、まだできていないのだ」
「じゃあ帰らなくて良いんじゃないの」
別段、無責任にそう言っているわけではない。
本人が嫌がることをしたくないし、仮に今、無理矢理に少女を家に返したとして、話を聞いている限り、事態が好転するとは到底思えない。それは少女自身が一番よくわかっているはずだ。だから、彼女の思うタイミングで帰れば、それで良い。
「もしだったら、僕の家に来るか? うち、無駄に広いし部屋も余ってるから、コマ一人ぐらいなら、こっそり家に入れても、ばあちゃんにもバレないと思うけど」
「……えっと……」
「? どうした?」
言葉を選ぶように首を右へ左へとやりながら、少女は気まずそうに口を開く。
「あのな、アキ、ワタシは人間なのでな? そんな、犬を拾ったときみたいなことを言われても……」
「ん? ああ、ごめん。他意はなかった」
すっかり犬扱いが板についてしまっていた。
「やっぱりアキは、ワタシのことを本当に狛犬だと信じていたのだな……」
「あー、違うちがう、違うから落ち込むな! お前のことは最初っから胡散臭い中学生だと思ってたよっ!」
「う、胡散臭い……」
「ああ、もう!」
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