(5)――その透き通るような歌声は、美しく秋の神社に響き渡る。

「さて。お腹も満たされたことだし、練習を始めるとしようか」

「そうだな」

 多めに作ってきたつもりの弁当を二人で難なくぺろりと平らげ、温かいお茶を飲んで休憩することしばらく。

 少女の言葉を受けて、僕は社殿から少し歩いて開けた場所に移動する。すると暖かい日差しが僕を出迎え、思わず空を見上げた。そこには雲ひとつない青空が広がっていて、僕は慌てて視線を地面まで急降下させる。やっぱりまだ青空は苦手だ。

「アキ? なにか居たのか?」

「いや、なんでもない」

 首を横に振って、気分を切り替える。

 そんな僕を見て、少女もそれ以上なにか言うこともなく、ひょいと立ち上がった。

「それでは、まずは腹式呼吸からだ」

 少女は、軽い足取りで僕の正面へ回った。

「実は昨日、帰ってから少し練習したんだ」

「おお、偉いぞアキ。さぞ上達しているのだろうな」

「無駄にハードルを上げんじゃねえよ……」

「えへへ、冗談だ」

 そう言って、少女は微笑む。

「焦る必要はない。今日は時間もたっぷりあるからな!」

「うん」

 それから、少女指導の下、複式呼吸の練習をした。

 呼吸を意識して、吸って吐いてを繰り返す。

 昨日の今日ですぐに上達はできなかったけれど、それでも昨日よりは幾分できたような気がする。これは一重に少女の上手な教えかたによるところが大きい。学校で習うだけでは、こうはいかなかっただろう。

 腹式呼吸をすると息がしやすくなるというのは、昨日も思ったことだったけれど。どうやら息がしやすくなったのは、少女も同じであったらしい。最も、少女の場合は、お面が口元を覆わなくなったからという、理由は僕とは全くの別物なのだけれども。

 できるだけ少女の顔の痣に視線を遣らないように気をつけながら、僕はそんなことを考えた。

「なかなかに上達してきているぞ、アキ」

「本当か?」

「もちろんだ!」

 歯を見せて、少女は笑う。

「ようしアキ、次は発声練習だ」

「わかった」

 神妙に頷いた僕に、少女は手をぷらぷらと振りながら、

「そう身構えることはないぞ」

と言う。

「発声練習というと大仰に聞こえるかもしれないが、より声を出しやすくするための練習だ。喉を開く、と言うとわかりやすいだろうか?」

「んん……?」

 首を傾げる僕に、少女は、つまりだな、と続ける。

「これをやると、喉に負担をかけずに歌うことができるようになるのだ。詳しい理論は学校で音楽の先生が説明してくれるだろうから、ここでは割愛するぞ。喉からではなく、お腹から声を出すことをイメージして欲しい」

「具体的にはどうやるんだ?」

「簡単だ。リラックスした状態で、同じ音程、同じ調子で息の続く限り『アー』と声を出す」

「それだけ?」

「うむ。だが、これをやるとやらないとでは、歌うときの声の調子が全く違うのだ」

「コマがそう言うんなら、間違いないんだろうな」

「うむ! それではやってみよう。ワタシがお手本を見せるから、それに続いてくれ」

「わかった」

 腹式呼吸のときと同じように、足を肩幅に開いて、一度肩をぐっと上げてから下ろし、基本の姿勢を取る。そうして右手を腹部に当てると、少女は『アー』と声を発した。高過ぎもせず、低過ぎもせず。大きくもなければ、小さくもない。そんな声の出しかただ。

 喉を開く練習。

 喉からではなく、腹から声を出すイメージ。

 言われたことを思い返しながら、少女に続いて僕も発声した。

 驚くべきは、僕の息が続かずに離脱してからも、少女の声が続いていたことである。僕よりも先に始めて、僕よりも息が続いているだなんて。この少女の肺活量は、とんでもなく大容量であるらしい。

「……コマ、すごいな」

 少女の発声が終わるのを待ってから、僕は端的な感想を述べた。肺活量もそうだが、最初から最後まで同じ調子で声を出せることもすごい。僕は終わり際、声が震えてしまっていたというのに。

「えへへ。アキも練習すれば、これくらいできるようになるぞ」

「そういうものか?」

「そういうものなのだ」

 力強く頷いて、少女は続ける。

「アキはきっと上手になる。ワタシが保証する」

「そう言ってもらえると心強いな」

「あっ、その言いかた、信じていないな? 本当に本当なのだぞ?」

「はいはい、わかってるって」

「はいは一回だぞ、アキ」

「はーい」

 少女は気休めでそんなことを言う性格ではない。だから、言葉の通りなのだろう。その信頼関係がくすぐったくて、僕は冗談交じりにそう返すことしかできなかった。

「この発声練習を、もう二回やるぞ。そうしたら、歌の練習に入ろう」

「うん」

 腹式呼吸と発声練習を終える頃には、身体がすっかり温まっていた。歌を歌うだけだからと甘く捉えていた所為なのだが、一日中外に居ることになるのだからと、着込んできたのが見事に裏目に出てしまった。

「コマ、ちょっと待ってて」

 一言かけてから、僕は上着を脱いで、社殿にまとめておいた他の荷物と一緒に置く。

「あ。コマ、喉、乾いてないか?」

 荷物の近くまで来たついでに、僕はお茶の入っている水筒を手に取った。

「少しだけ」

 言いながら、少女はとことことこちらに歩いてきた。

 水筒を開け、コップにお茶を注いで少女に渡す。

「はい、どうぞ」

「ありがとう」

 コップを受け取ると、少女はごくごくと飲み干した。頬と口元の痣に目が行かないように、僕は意識的に少女から目を逸らし、自分のぶんのお茶を注いで飲んだ。

「ふはあ、生き返った!」

 ありがとう、と言いながら、少女は両手でコップを僕に返す。

「それではアキ、いよいよ歌の練習に入るぞ!」

「よっしゃ」

 少女からコップを受け取り、僕は頷いて見せた。

 身体は十二分に温まっている。今なら気持ちよく声を出せそうだ。

「今日はまず、音程を覚えることに集中しよう」

「わかった」

 水筒とコップをリュックサックに仕舞って、大きく背伸びをする。すると、否が応でも視界に空が目に入った。昼前まで真っ青だった空には、いつの間にか雲が伸びてきている。上空何千メートルを揺蕩うあれらの雲は、少し目を離した隙にどこかへ流れて消えていく。また言いようのない無力感に襲われそうになって、僕は境内に視線を落とした。

 少し冷たい風が、木々の間を抜けて吹き込んでくる。

 もう秋も終わりに近づいてきているのだ。

 自然は人間の感情など置き去りにして、季節を移ろわせていく。僕はこれに、いつになったら追いつくことができるのだろうか。そう気持ちが焦る日が多かったけれど、今は不思議と、少しだけ追いつけたような気持ちでいる。

「いいかアキ、歌い出しはこうだ」

 すっかり準備万端でいた少女は、軽く咳払いをしてから、お手本を歌い始めた。

 その透き通るような歌声は、美しく秋の神社に響き渡る。

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