(6)――「アキに聞いてほしいことがあるのだ」

「少し休憩しようか」

「そうだな」

 音程を覚えると言っても、この神社にラジカセの類は一切ない。楽譜を持ってきているとは言え、楽譜の読めない僕のために、少女は逐一懇切丁寧に教えてくれた。

 そうして気がつけば、練習開始から二時間が経過していたのである。

 時刻は既に午後三時を過ぎていた。

「ちょうど良い時間だし、おやつにするか」

「ヤー!」

 社殿前の階段に腰掛けて、僕はスイートポテトの入った容器を取り出す。その間、少女は隣でそわそわと僕の手元を凝視していた。それだけ期待されると緊張する。

「形は歪だけど、味はばあちゃんお墨つきだから」

 そんな言い訳をしながら容器の蓋を開けた。手軽に食べられるようにと、一口大にしたスイートポテトが並んでいる。ちらりと少女の口の大きさを確認する。どうやら、大き過ぎるということはないようだ。

「うわあ……!」

 スイートポテトを見るなり、少女は小さく歓声を上げた。

 その喜びようと言ったら、もしも彼女が本当に犬であれば、引きちぎれんばかりに尻尾を振っていたと確信するほどである。

「待て」

 今にも飛びつきそうな少女に、僕は一旦制止をかけた。

「なっ?!」

 このタイミングで、なんと残酷な指示を出すのだ。

 そう言わんばかりの声音で、しかし少女はぴたりと動きを止めた。

 犬だとしたら、本当にお利口だよ、お前は。

 こみ上げてくる笑いをぐっとこらえ、僕は、

「今、お茶を注ぐから。がっついて喉に詰まったら大変だろ」

と言った。

「そんなはしたない真似はしないぞ?!」

「はいはい、もうちょい待ってな」

「うっぐぐぐ……!」

 早く食べたいという意思表示は痛いくらいに伝わってきていたので、僕も手際良くお茶を注いで少女に渡す。

「よし」

「いただきます!」

 お茶を受け取るや否や、少女はスイートポテトをひとつ掴み、口に放り込んだ。

 一口大にしているとはいえ、相手は口の中の水分を奪いやすいスイートポテトだ。もったりした食感が口の中いっぱいに広がり、咀嚼には時間がかかる。

 少女も例に漏れず、もくもくと咀嚼していた。昼の弁当を食べたときもそうだったが、少女は食事中、言葉数が少なくなる。口に物が入っているときは絶対に喋らないし、ごちそうさまと手を合わせるまで、僕から話を振り、それに答える以外、少女は無言だったのだ。もしかしたら、その辺の躾が厳しい家庭なのかもしれない。

「ど、どうだ?」

 少女が飲み込むのを待って、僕は尋ねた。

「美味しい! すごく美味しいっ!」

 果たして、少女は満面の笑みでそう答えた。

「本当に?」

「こんなことで嘘を言うものか。というかアキ、試食していないのか?」

「ばあちゃんにお願いした。……その、最初の一口目は、コマと一緒に食べたくて」

「……」

 うっかり溢れた言葉に、少女はぽかんと口を開けていた。しまった、と思ったときにはもう遅い。

「ち、違う、違う! 別に、変な意味はなくて――」

「……えへへ」

 しかし少女は、僕の予想に反して、そんな笑い声を零した。

「コマ?」

「あ、いや、その、今のアキの言葉が、なんだか無性に嬉しくてな。ワタシも、自分で作ったものは誰かと一緒に一口目を味わいたいって、よく思うのだ」

 だから、アキと同じで嬉しい。

 少女はそう言って、にっこりと笑みを深めた。

「ほら、アキも食べよう。すごく美味しいぞ」

「ああ、うん」

 促され、僕もひとつ口にする。選んだのは、中でも一番かたちが歪で他よりも焦げ目が付きすぎているものだ。口の中いっぱいに広がる甘さの中に、ほろ苦さも入り交じる。けれどそれは甘くて苦くて、そして、懐かしい味だった。

 毎年のように作っていたスイートポテトだけれど、今年はいろいろと状況が変わった。一緒に作る人が少なければ、一緒に食べる人も違う。けれど味だけは、ほとんど一緒なのだ。僕はそれを、ゆっくりと咀嚼する。スイートポテトに口の中の水分を奪われながら、時間をかけて食べていく。

「……コマ、ありがとうな」

 全てを飲み込んでから、僕は言った。

「ふぇ? なにがだ?」

 完全な不意打ちだったらしく、少女からはいやに気の抜けた声がした。

「……わかんない。だけど、なんとなくお前にお礼を言いたくなってさ」

 少女と出会わなければ、僕は自分から兄さんと母さんの箪笥を開けることもなかっただろう。

 こうして弁当を持ってきて一緒に食べることや、スイートポテトだって。

 少女と共に過ごしていると、いかに僕の中の時間が止まっていたのかが明らかになっていくようだった。

 立ち止まるつもりも、立ち止まっているつもりもなかった。

 父さんたちのことを考えるのは、いけないことだと思っていた。死んだ人のことを思い出したって、目の前に現れたりはしてくれない。どころか、この世に存在しないという現実を突きつけられるだけだと、そう思っていた。

 だけど、それは違うのかもしれない。

 死んだ人との思い出は、そこかしこに散らばっている。見ないようにするから、余計に心が疲弊してしまっていたのかもしれない。だから、否定も無視も、するだけ無駄だったのだ。

 死はいけないことじゃない。

 受け入れて、飲み込んで、自分のものにする。

 そうしてようやく、これから先のことに目を向けられるようになるのだ。

 それが、なんとなくだがわかったような気がした。

「――昨日から、ずっと考えていたんだけれど」

 ふと、少女は言う。

 その声には強い意志が籠もっているのがわかって、僕は思わず息を呑んだ。

「アキに聞いてほしいことがあるのだ」

 風が吹き、木々がざわめく。

 それは少女に話の続きを促しているようにも、少女の声を遮ろうとしているようにも聞こえた。

 本当に話したいことなのか、否か。

 本当に聞いて良いことなのか、否か。

「僕で良いなら」

 慎重に答えた僕に、少女は、

「アキじゃなきゃ駄目なのだ」

と答えた。

「わかった」

 僕はそれに、神妙に頷く。

 太陽はゆっくりと傾き始め、山の斜面に建つ神社は早くも薄暗くなりつつある。

 だけど、日没まではまだ時間があることは確かだった。

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