(2)――「人間と会うのは久しぶりだ。ふふ、興味深い。なあ人間、ワタシと少し話をしないか」
反射的に顔を上げ、声のした鳥居のほうを見る。
すると鳥居の下には、一人の少女が仁王立ちしていた。
さっきまでそこには誰も居なかったはずだ。どこかに隠れていたのだろうか。
目的はなんだ? どうして僕に声をかけてきた?
脳内にいくつかの疑問が浮かぶ。だが、あまりに現実離れした光景に、僕はそれらを言語化することなく飲み込んでしまった。しかしこれは、不可抗力というものだ。僕じゃなくても、大抵の人間は言葉を飲み込んでしまうことだろう。
なにせそいつの格好は、それほどに異質だったのだ。
僕よりも頭ひとつぶんはゆうに高いであろう、すらりとした長身の少女。その黒く真っ直ぐな髪は、秋の風に乗って優雅に揺れている。
しかし。
衣替えの終わっている十月に、夏用の制服に身を包んでおり。その顔は、日曜の朝にやっている女児向けアニメのお面に覆われていたのだ。不審者と呼ぶ以外に考えられない、完璧な不審者だった。
「人間と会うのは久しぶりだ。ふふ、興味深い。なあ人間、ワタシと少し話をしないか」
「……」
「そう警戒しないでくれ。ワタシはこの神社の狛犬だ」
「……」
もしも、少女の被っているお面がもっと古風なものであれば。この場所が神社であることも手伝って、僕も雰囲気に流され、その言葉の通り、少女を狛犬と信じ込んだかもしれない。しかしあれは、どう見ても夏祭りの屋台で売っているそれだ。いかにそれらしい口調でそれらしいことを言おうと、そのお面が全てを台無しにしている。そのおかげで、混乱していた僕も一気に冷静になれてしまえた。
「む、聞こえていないのか? それともワタシが怖いのか?」
「……」
怖いかどうかと訊かれたら、正直言って怖い。
なにせここは、僕が生まれる前から寂れていて、地元民はほとんど寄り付かない神社なのだ。実際、僕は今年の春頃からよく来るようになったが、誰かと会うことなど一度もなかった。
そこに突如として、お面の少女が現れたのだ。十中八九、不審者と見て間違いないだろう。見た目は学生だが、そのお面を取ったら案外オバサンが出てくるかもしれない。そう考えると、余計にぞっとする。
逃げよう。
即座にそう結論付けた僕は、足元に置いていた鞄を手に取った。
しかしここで、大きな問題が立ちはだかる。
この神社は、山の中腹、その急斜面に建てられているのだ。神社の後ろは切り立った崖のようになっていて、決して人の歩ける道はない。そして下山するにも、途中までは片側が急斜面の山道を通って行かなければならない。
つまり僕には、この少女の横を通過して帰る以外の方法がないのである。
「……っ」
悩んだところで、答えはひとつしかない。
僕は覚悟を決めて一歩踏み出した。
自分の足元に視線を遣り、少女のほうは見ない。そのまま、ずんずんと歩みを進める。少女の口振りから、自分を人外の存在として設定しているんだろうし、ここは『視えない』という
が。
「まあ待て。ワタシは君に害を与えはしないから」
少女は僕の腕を掴み、神社からの脱出を阻んだ。いや、これは『掴んだ』なんて表現では生易しい。それよりも『握った』と言ったほうがしっくりするし、なんだったら『捕獲』と表現しても過言ではない。その細腕のどこから力が繰り出されているのか。そんな疑問を抱く余裕は、残念ながら僕にはなかった。
「やめろ、離せ」
動揺していることを悟られないよう、僕は声に感情を含めないよう努めて言った。
「残念ながら、それはできない」
しかし少女は、僕の腕を握る力を強めながら、言う。
「この山道を下りた先にある自販機に、さきほど君を追いかけ回し、挙句の果てに暴力を振るっていた上級生達がたむろしている。今行けば、間違いなく遭遇してしまうぞ。また袋叩きにされたいのか?」
「……どうしてそれを?」
思わず口をついて出た質問に、少女はため息混じりに、
「たまたま見かけただけだ」
と答える。
「見ていられなくて、こうしてワタシが出てきたのだ。おいで。傷の手当てをしてやろう」
少女はそう言いながら、僕を社殿へと引っ張る。力比べに負けた僕は、されるがまま社殿前の階段に座らされた。
「少し待っていてくれ」
そうして少女は、至極当然のように社殿の戸を開け、中に入って行ったのである。
「……は?」
予想だにしていない展開に、僕の口からはそんな音だけが飛び出した。
馬鹿な。いくら十数年前から寂れて人の手が入らなくなっている神社とはいえ、最低限の施錠だけはされている。実際、僕だってここへ来るようになってから、何度か中に入れないか試しているのだ。施錠されていることは間違いない。
しかしあの少女は、社殿が自宅であるかのように、平然と戸を開けてみせた。
単純に鍵をぶち壊せるほどの怪力の持ち主なのか。或いは、本当にカミサマの類なのか。
「お待たせした」
呆然としているうちに、少女はビニール袋を片手に戻ってきた。そうして僕の隣に座ると、そこから絆創膏や湿布、消毒液などを取り出す。この神社の狛犬を自称する割に、出てくるものは現代的なものばかりで、薬草の類はないようだ。
「……や、やっぱり、いい。手当てなんて必要ない」
しかし、次々に出てくる救急用品を見ていると、自分がどれだけ酷い怪我をしているのかを指摘されているような気がして、僕は遅まきながらに拒絶の言葉を口にした。
痛々しくて可哀想だなんて、思われたくなかった。
「そう意地を張るな。傷は放っておくと酷くなってしまうぞ?」
僕の言葉などどこ吹く風か。少女はウエットティッシュで僕の顔についた泥を拭い取り、消毒液を染み込ませたティッシュで傷口を拭き、絆創膏を貼っていく。
優しいけれど、怯えも含まれているような手付きだ。少女の手は、どこか遠慮しがちな触れかたをする。保健室の先生みたいな手際の良さなのに、妙なちぐはぐ感を覚える。この違和感の正体はなんだろう。
「ほら、少年」
すっと顔を上げて、少女は続ける。
「学ランとワイシャツを脱いでくれ」
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