(3)――「う、ううう敬え人間!」
「……は?」
少女がなにを言っているのか、咄嗟に理解できなかった。いや、理解したくなかったと言ったほうが正確か。それでも心を落ち着け、少女の先の発言を思い返す。聞き間違えでなければ、脱げと言ったか、この自称狛犬。
「だから、学ランとワイシャツを脱いでくれと言ったんだ」
真剣な口調で、少女は同じ言葉を繰り返した。
「何故」
「だって、脱がないとできないだろう」
ほら、と少女は手に持った湿布を見せる。
「腕と胴体、痛むのではないか?」
「……」
「上級生達からの攻撃を、腕で防御していれば致しかたないことだ。そうでなくとも、彼らは服で隠れるところばかりを狙っていたからな。少し寒いだろうが、痣になってしまうよりはマシだと思うぞ」
「……ややこしい言いかたを……」
「うん?」
「なんでもない」
僕の勝手な誤解が解けたところで、少女の指示に従い学ランとワイシャツを脱いだ。少女の読み通り、腕や腹は既に痣だらけになっていた。このぶんだと、背中も悲惨なことになっているに違いない。
「……っ、寒いだろう、すぐに終わらせるな」
自分でも気持ちが悪いと思ってしまう痣に、少女も一瞬だけ息を呑む素振りを見せた。
しかしそれで手を止めることはなく、無駄のない動作で右腕から治療を始める。
「……お前、名前は?」
大人しく手当てを受けている間、手持ち無沙汰な僕はひとつ質問を投げてみることにした。
お面で顔が隠れているから正確さは欠くが、中身がオバサンということはなさそうだ。声の感じからして、おそらくは僕と同世代だろう。というより、間違いなく同い年だ。
なにせ少女の着ている制服は、今年度からデザインの一新されたうちの中学のものなのだ。上級生は旧デザインの制服を着ているのだから、僕と同じ一年生と見て間違いない。
加えて、ここは一学年二クラスしかないという、田舎の少子化事情の影響を受けている地域である。田舎であるが故に、個人の特定は容易で迅速、なおかつ正確だ。だから、あとは制服に付けることが義務付けられている名札を見れば、どこの誰かなんてすぐにわかると思っていたのだが。
少女の制服には、名札が付いていなかった。
これでは、個人の特定ができない。
どれだけ記憶をひっくり返しても、この少女のような、すらりとした長身長髪の女子は思い当たらない。学校だとかなり目立つだろうから、絶対に忘れないと思うのだけれど。
僕の知らないうちに転校生でも来ていたのだろうか。
そんなことをぼんやり考えながら、軽い気持ちで投げた質問だったのだが。
「ワ、ワタシの、名前?」
名前を尋ねられた少女は、何故かぎくりと肩を縮こまらせていた。
「ああ。なんていうんだ?」
「……神の、遣いに、名前など……」
「いや、そういうの良いから。名前、教えてよ」
「名前は……」
少女はしどろもどろに右へ左へと首を動かす。お面の所為で視線は追えないが、なにかを探してるかのようにも見える。
「ワ、ワタシの、名前は……コマ。そう、コマだ」
「嘘つけ。今適当に考えたんだろ」
「そ、そんなわけないだろう! ワタシはこの神社の狛犬の化身、コマであるっ! う、ううう敬え人間!」
「……。この神社、狛犬は置いてなかったと思うんだけど」
「それは、ほら、ワタシが今、こうして具現化しているからであって……」
「じゃあもう一匹はどうした」
「も、もう一匹?! もう一匹は、ええと、ええと……じ、自分探しの旅に出ているっ!」
「ああそう……」
これ以上の追求は無意味と悟った僕は、大人しく引き下がることにした。
別に、教えたくないのなら無理に聞き出そうとは思わない。この神社に僕以外の人間が出入りしているとわかった以上、今後はここに来ることはなくなるだろうし。今日限りの関わりしか持たない相手の名前なんて、実際のことろはどうでも良かった。
「む! その反応、信じていないなっ?!」
しかし少女は、僕の態度が不服だったらしく、そんなことを言う。
「それならば、ワタシが神の遣いである証拠として、君のことをずばり言い当ててやろうじゃないか!」
いつの間にか右腕の治療を終えていた少女は、ずいっと僕のほうへ顔を近付けてきた。女児向けアニメのお面が、僕に接近する。しかし、お面の奥にあるはずの少女の瞳を見ることは叶わない。お面に開けられた穴は小さく、僕から見えるのは闇だけだ。
「ふっふっふ……、わかったぞ。それはもう、ばっちりと」
少しして、少女は自信満々に口を開いた。
「……えと、なにがわかったんだ?」
そう言ってから、僕はこの少女と普通に会話をしていることに気がついた。
力負けしているのは事実だが、「この場からの逃走する」という選択肢が、いつの間にか僕の中から消えていることに驚きを隠せない。
この半年間、他人と話すことは苦痛でしかなかったというのに。自称ながらも神の遣いを名乗る少女との会話は、不思議と不快には感じなかった。だから、少しの間だけなら良いかな、と思ってしまった。
「君は男の子だ」
「ああ」
「そして、この村の人間だ」
「うん」
「通っている学校は、この村唯一の中学である、村立
「……そうだね」
期待はしていなかったが、見事に外見からの情報ばかりが出揃った。その程度なら、神の遣いでなくとも、誰にだってわかることである。
「ほ、他にもまだわかるんだからな!」
全く信じていないことが伝わってしまったのか、少女は両手をぱたぱたと上下させながら、自らを追い詰めていくような話題を続けるようである。
「視力は良いほうだろう」
「うん。両目ともA判定」
「両親は、どちらも日本人だな」
「……」
「どうした? 違ったか?」
「いや。正解」
長い沈黙にはならなかったはずだが、不自然に思われてしまっただろうか。
「あー、えっと、それで?」
注意を逸らすように、僕は言う。
「なんでもお見通しの狛犬サマは、僕の名前くらい、もうわかっちゃってるんだよな?」
「当然! 君はアキというのだろう?」
えへん、と胸を張る少女。顔が見えたら、それはもう自信満々な表情を浮かべていたに違いない。
「フルネームはわからないのか?」
「え?」
きょとんと首を傾げたかと思うと、次の瞬間に少女の口から放たれた言葉は、僕の予想を上回っていた。
「だって、読めない」
「……」
僕の制服にも、もちろん名札は付いている。側に置いている学ランを見れば、一発でわかるはずだ。しかし敢えてそれに気付いていないふりをし、見事名前を的中させることで、自称神の遣いである少女のアイデンティティを守ろうと思っていたのだが。
全く、「読めない」なんて言えば、名札を見ていることがばればれじゃないか。
「竹と並ぶ、美しい秋」
嘆息をもらしながら、僕は言う。
「そう書いて、
個人情報に厳しい昨今、自ら丁寧に本名を名乗ることは、愚行と言われるかもしれない。けれど、個人情報を把握していること自体を前提としているような田舎では、必死に秘匿するにも限界があるのだ。
特に、僕の場合は。
隠そうとしても隠せない事情がある。
「そ、そう! それが言いたかったのだっ! いや、本当は既に知っていたのだぞ? 本当だぞ? なにせワタシは優秀な狛犬だからな」
「ああうん、すごいすごい」
「タケナミヨシアキ。うん、とても綺麗な名前だ」
しかし少女は、僕の名前を聞いても、この村独特の反応を示さなかった。
同じ中学の制服を着ている以上、少女だってこの村の一員のはずなのに。
「……お前さ、この名前に聞き覚えはないのか?」
思わず、少女に尋ねた。
この村の連中が口々に『可哀想な美秋君』などと言って勝手に憐れみ、世間話のネタにしていることくらい知っている。
けれど少女は、本当に不思議そうに首を傾げ、
「君とワタシは初対面だろう?」
と言うのだった。
しらを切っているのか。
或いは、本当になにも知らないのか。
「確かに、お前とは初対面だけど……」
「そうであろう? 君はおかしなことを言うのだな」
「……」
まあ良いか。肩を竦め、僕は考え直す。
この少女がどういうつもりかなんて、結局のところどうだって良いのだ。どうせみんな、僕には関係ない。
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