五十三話 甘い誘惑



 どのくらい走り続けただろう。


「ねえ、少し休まない?」


 ジョーンズに聞こえるように、アニスが甘い声で囁いた。しかし、ジョーンズは、アニスの声を無視してタンジーの勇ましい姿を見ていた。


「タンジーは馬に乗るのが本当に上手だ」


 アニスは、完全に無視されて不機嫌な顔をした。ジョーンズは、しまったと思い、話しかけた。


「君は、一国の王女だろ」

「ええ、今だけね」


 アニスは、鼻で笑った。


「国は兄が支配するわ。あたしはただの妹、ただの女に過ぎない。ただの女はいいわよ。誰の目に触れるわけでもないし、誓約もないし楽でいいわ」

「初めて会った時とだいぶ印象が違うようだが……」


 ジョーンズが信じられないというように首を振った。アニスは笑った。


「初めて会った時は猫を被っていたのね。これが本当のあたしなのよ」


 早駆けしている最中に、ジョーンズの太ももを撫でてくる。ジョーンズは驚いて、思わず止まりそうになった。


「きゃあっ」

「君がいきなり触るからだっ」


 ジョーンズは怒鳴ってから、アニスを引き起こした。アニスは、真っ青な顔で大きく息を吐いた。

 悲鳴を聞いて、タンジーとロイが足を止める。


「少し休む?」


 タンジーが寄って来て尋ねた。


「ミス・アニスは疲れたでしょう」

「ええ、お尻が割けそう!」


 アニスは大げさに答えた。馬から下りて体を大きく伸ばす。タンジーたちも馬をつないで、少し体を休ませることにした。


「昼食にサンドイッチをもらって来たわ」


 タンジーが馬の荷物をおろして言った。

 シロフクロウは、どこかへ飛び去る。


「エルダーは自分で狩りができるから」


 水場はなかったが、少し小高い丘で休憩を取った。


「目的の場所はまだまだ遠いのか?」


 ロイが尋ねる。


「アレイスターはまだまだ先よ」


 タンジーは少し不安だった。

 何しろ、案内してくれるエルダーは来てくれたが、フェンネルの所までたどり着くのが、一日二日ではないことは確かだ。


 お師匠様を見つけるのには、最低でも一週間以上かかる。今回は、国元を離れているので、何日後に会えるのか見当もつかなかった。


「タンジー」


 ジョーンズが来て、隣に腰かける。

 アニスも一緒にいたが、彼女の目はサンドイッチしか見えていない。


「少し二人で話さないか」

「ええ、いいわ」


 タンジーは立ち上がり、ロイたちから離れた。

 見えなくなると、ジョーンズが手首をつかんで抱きしめた。


「ジョーンズ」


 驚いて目を見開くと、口を塞がれる。ジョーンズは角度を変えながら深い口づけをしてくる。

 タンジーは押し返そうとしたが、力が入らなかった。

 解放された時、お互いの息が乱れていた。


「こうしたくてたまらなかった、タンジー」

「ジョーンズ……」


 タンジーは、全身が燃えるように熱くなっていた。


「お願いだから、いきなりは心臓に悪いわ」


 ジョーンズは顔を寄せると、耳元に熱い吐息で囁いた。


「この旅が二人きりなら、僕はもう我慢しない」

「わたしの意思は無視?」

「君は拒まないはずだ」

「どうしちゃったの?」


 タンジーは、ジョーンズの硬い胸を押し返しながらも、彼の青い瞳をうっとりと見つめた。


「あなたってそういう人なの?」

「君だからだ。他の女性なんていらない」


 ジョーンズは、タンジーの細い手首を引きよせ、手のひらに何度も口づけをした。


「今夜は眠らせない」


 タンジーは顔を真っ赤にさせると、その場にへなへなと崩れ落ちた。

 ジョーンズは、タンジーの手を取って立たせた。


「そろそろ出発しようっ」


 離れた所からロイの声がして、二人ははっと体を離した。


「すぐに行くっ」


 ジョーンズが叫び、タンジーの手を取って歩き出そうとする。タンジーはその手をほどいた。


「タンジー?」

「少しでいいから、一人にさせて……」

「分かった……」


 ジョーンズは足早にロイたちの方へ向かった。


 タンジーは複雑な思いでそれを見つめていたが、足が重く動かない。

 ジョーンズの気持ちは何よりもうれしいが、本当にいいのだろうか。

 胸がざわざわする。何かが自分を不安にさせていた。


 少しの間、体の熱を冷まそうとタンジーはその場にとどまっていたが、ジョーンズたちを不安にさせてはいけないと思い、追いかけようとした。


 しかし、歩き出そうとすると、何かにつまずいてしまった。


「痛った……」


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