三十四話 タンジ―として生きる
アニスは、ノアを背後にかばった。
「タンジー、入ってもいいだろうか」
「ジョーンズだわ」
アニスは青ざめた。
「ごめんなさい、今、着替えているの」
アニスはとっさに嘘をついた。ジョーンズが一瞬、押し黙る。
「食事を持ってきた。少し食べた方がいい。ここに置いておく」
ドアの向こうでトレーを置く音がする。足音が去ったのを確認して、アニスはそっとドアを開けた。
パンとミルクとベーコン、サラダを乗せたトレーがあった。
それを持ってテーブルに置くと、ノアがごくりと喉を鳴らした。
「おいしそうだ。食べてもいいだろうか」
ノアは椅子に座り、パンを手に持った。
「温かい」
パンをちぎって口に入れる。ほうっと大きく息を吐いた。
「うまい。鍵でいた時は何も感じなかったが、こうして人間に戻るとやはり腹が減るな」
ぺろりと食べてしまう。
「おいしかった」
「兄上……」
ベッドに腰かけていたアニスは、呆れて息をついた。
「ああ、そうだった、話が途中だった。で、あの男は誰だ?」
「彼がジョーンズよ。パースレイン城で兄上が鍵になった後、ミモザがわたしたちをジョーンズの元へ飛ばしたの」
アニスは、自分たちがなぜ、ジョーンズの元へ飛ばされたのか、その話をノアに聞かせた。
ノアは呆然としながらも静かに聞いてくれた。しかし、兄の顔が徐々に険しくなる。アニスは不安に駆られた。
「兄上? すごい怖い顔してる。どうして?」
「……アニス、お前は二度と戻れない」
「え?」
「フェンネルの魔法は強大だ。いくらお前でも解くことはできないだろう。その娘とお前が元の姿に戻るときは、どちらかの命が尽きた時だ」
アニスには分かっていた。
フェンネルの力は計り知れず、この世で一番の白い魔法使いだからだ。
「分かってる……。兄上、わたしはどうしたらいいの?」
「お前は、その娘として生きるんだ」
アニスは足元がなくなってしまうような恐怖を感じた。
「一生、この姿なの?」
「その娘が死なない限り」
「ああ……」
アニスには自信がなかった。ミモザもいない。自分の身体でもない姿で何ができるんだろう。
「アニス」
名前を呼ばれて、顔を上げると兄が見つめていた。
「お前も気づいたんだろう。鍵の模様を見て」
「時空の門を開く鍵。グリモワールに書かれていた幻の鍵。どういう意味なの?」
「まだ、わからない」
ノアがアニスの肩をしっかりと抱いた。アニスの目から涙があふれる。
「兄上、一人にしないで、そばにいて、お願いよ」
「鍵を奪われるな。これから先、一人かもしれないが、僕はずっとそばにいる。負けるんじゃないよ」
兄の手が肩にぐっと食い込む。アニスは、歯を食いしばった。
「これからはアニスではなく、その少女として生きろ。タンジーだったね。今から、お前は、タンジーとして生きるんだ」
兄はそう言うと、鍵に戻してくれと頼んだ。
二人はお互いを強く抱きしめると、ノアが静かに息をついた。
アニスは手を振り上げ、兄を鍵の姿へと変えた。手に乗せて飲み込む。
もう、泣かない。
兄は自分を裏切らない。わたしが守らなければ。
そして、兄がそばにいることを思い出せば、力が出てくるような気がした。
これからは前を向いて生きるのだ。
兄は言ったのだ。タンジーとして生きろと。
タンジーとして生きる。
タンジーは涙を拭いた。マイケルたちと合流しなくては。自分だけではジョーンズを守りきる自信はなかった。
窓のそばに寄って外を眺める。遣いに出した灰色の虫が戻ってこない。
灰色の虫は、無事にマイケルたちを見つけることができたのだろうか。
耳を澄まして風の音を聞き取る。静かだった。
ミモザがいてくれたらいいのに。
ノアがいる限り、自分は狙われる。ならばジョーンズのそばにいない方が彼は安全だと思うのだが、ミモザは彼から離れるなと言った。
どうすればいいのだろう。なぜ、ジョーンズの命が狙われていると、精霊たちは教えてくれるのだろう。
答えはミモザが知っている気がした。しかし、彼はいない。
その時、コツコツと窓をたたく音がした。
タンジーが顔を向けると、灰色の昆虫が戻ってきた。
「あっ」
入れ替わりに遣いに出した灰色の虫が戻ってきた。
タンジーはほっとした。
見つかったのだ。これで、マイケルたちと合流できる。
タンジーは、隣の部屋を借りているジョーンズのところへ、すぐに報告に行こうと思った。
部屋を出て、ジョーンズの部屋をノックすると、彼はすぐに出てきた。
「どうした?」
「あの、マイケルたちの場所が分かったの。明日の朝、一番に移動できたらと思って」
「そうか。それはよかった」
ジョーンズは少し疲れているようだった。
「あの、宿を借りてくれてありがとう」
「いいさ、さっさと寝よう。おやすみ」
ドアが閉まり、タンジーはため息をついた。
ジョーンズのそっけない態度に少し気分が落ち込んだ。
もう、本当にあきらめないといけないのかもしれない。
初めて気弱になった。
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