第14話 叫ぶグリモワール



 わたしは跳ね飛ばされて、床に手をついた。

 スカーフがほどけて顏が表に現れる。人々はわたしを見て、息を吞んだ。


 ――それは黒い力を持つおぞましい化け物です。今すぐこの城から追い出すのです。


 それを聞いた人々は駆け寄ってきて、わたしの髪を引っ張り腕を引きちぎるほど引いた。腕の中で震えていたラリーサが泣き叫んだ。


 ――何とこの化け物は、妖精の王女さえも盗んでいたのですね。

「違うっ」


 ジョーンズが叫んだが、騒ぎで聞こえない。


 わたしはもみくちゃにされながら、誰かに腕をつかまれどこかへ連れて行かれた。足は傷だらけになり、スカーフはどこかへ飛んで、剥き出しの顔を誰かがぶった。

 助けを呼ぼうとしたが、わたしは思い出していた。


 奴隷は、何も、考えてはならない。


 わたしは、無になった。

 無になったわたしは無敵だ。

 もう、何も考えない。


 蹴られても殴られても、痛くない。

 口を真横に結んで、人々の好きなようにさせた。


「ジョーンズ様には見つからないように捨てておけ」


 男が言って、わたしはどこかの牢に放り込まれた。

 頬に冷たい石を感じた。石に囲まれた牢屋だ。

 薄暗くてとても冷たかった。


 ラリーサ。


 ふと、ラリーサの泣き顔を思い出した。途端、胸に鋭い痛みが走った。


 ラリーサ。


 一緒にいられて幸せだった。彼女だけがわたしの幸せ。

 感情を解放すると、温かい気持ちとともに、人々に憎まれる冷たい感情が交差した。


 痛い。


 感情を解放すれば、わたしの心は破裂する。けれど、グリモワールが叫んでいる。


 書け! 気持ちを解放しろ! 無になることは、死んでいる事。


 でも、痛いのは嫌だった。心を解放すると、感情があちこちから心に入りこんでくる。わたしは生きているのだ。


 グリモワールはわたしに叫ぶ。


 生きているのだから、真実を書け。

 わたしは床に這いつくばった。

 血が流れていた。

 わたしの血は赤かった。わたしは人間だ。

 赤い血を流す人間である。

 無意識に指が動いた。 


 血で床に文字を描いた。何を描いたか分からない。けれど、何か描かずにいられなかった。


 呪文の言葉があふれだす。それを唱えると、魔法が発動した。

 血文字から何か噴き出してきた。


 黒い小さい生き物だ。

 人間のような形をしていて、手のひらくらいの小さい生き物だ。

 全身がまっ黒で何も身につけていない。髪の毛もなく全身はつるりとしている。


 赤い目。

 黒い魔物だ。


 わたしは、黒い力を持っている化け物だった。

 ライラの言った通りだ。


 わたしはアニスじゃない。

 本当に、アニスじゃなかった。

 涙が出る。


 ジョーンズ、わたしはアニスじゃなかった。

 本当は、アニスであることを願っていた。だって、アニスならジョーンズと結婚できるもの。

 アニスになりたい。アニスになりたかったの。


 その声が言葉に出ていたのだろうか、黒い魔物が近寄って来た。

 這いつくばるわたしのそばに寄り、耳に囁いた。


 ――奴隷よ、お前は何を願った? アニスとは何者だ。


 わたしは首を振った。


 ――奴隷よ、答えろ。


 嫌よ。


 断ると、目に何かが鋭く刺さった。

 黒い魔物が目に剣を突き立てていた。わたしは悲鳴を上げた。


 ――痛いだろう。


 痛い。


 ――アニスとはパースレインの王女の名前だ。生きているのか?


 知らない。


 わたしは首を振った。

 黒い魔物はわたしをじろじろ見た。


 ――ふん。お前は獣だな。臭いし醜い。


 黒い魔物はわたしを見ていたが、にたっと笑うと、わたしの体を壁に押し付けた。目を貫かれたままわたしの体は壁に塗りこまれていった。息ができない。


 ――苦しいか。


 わたしはもがいた。

 死を覚悟した時、目の前に光る何かが浮遊しているのが見えた。

 わたしはすがる思いでそれをつかんだ。

 魔物は気付いていない。


 その時、黒い魔物の背後に人の影が現れた。

 わたしの目はかすみ、夢か現実か分からなくなりかけていた。

 ぼやけている目の前に立っていたのは妖精だった。


 金髪で紫の瞳、無色透明の羽を持つ少女。


 ラリーサ!

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