第8話 妖精の赤ちゃん



 どんどん逃げる。

 走るのは得意だ。

 心臓が壊れても構わない。この子を助けるためなら、わたしは命をささげる。


「止まって!」


 その時、エヴァンジェリンが目の前に立ちふさがり、わたしはぴたりと足を止めた。

 エヴァンジェリンの冷たい瞳があった。

 気がつけば、宿からはずいぶん離れた森の奥深くに入っていた。


「これ以上入ると、ご主人様が見つけられない」

「分かったわ」


 わたしは頷いた。

 森の中は真っ暗だった。

 しかし、わたしたちの姿は光る赤ん坊のおかげでしっかり分かった。


 そうなのだ、この赤ん坊は光っているのだ。

 このままでは目立ってしまう気がした。

 空には月が出ていて、とてもきれいだった。

 少しだけ進むと、木が茂っていない空間に出た。そこは月明かりが集まって明るい。

 ここなら、この子が光っても目立たないだろう。

 そう思ってわたしは赤ん坊を抱いたまま座った。

 赤ん坊は泥で汚れてわたし以上に臭かったが、目は薄紫に髪は茶色だった。

 きっと素晴らしく美しい赤ん坊に違いない。


 何より魅了されるのは、無色透明の羽だ。

 凍てつく冬の空から舞い落ちる結晶よりもはるかに美しく、月明かりの角度によっても色が変化した。

 赤ん坊はわたしの腕の中で、ずっと眠っていた。


 この子をどうやってここまで運んだのか記憶がない。

 それだけ必死だったのだろう。

 エヴァンジェリンは、ジョーンズを探しに行ったのか姿が見えなかった。

 しかし、わたしは月明かりに照らされて穏やかな気持ちでいられた。

 森がこの子を守ってくれている。

 肌でそれを感じることができた。


 少しして森の中からエヴァンジェリンとジョーンズが馬を連れて戻って来た。

 ジョーンズは顔中どろどろで疲れてはいたが、ケガをした様子はなかった。


「マーサ、君は世界一走るのが早い女の子かもしれない」


 ジョーンズは目をぐるりとさせた後、赤ん坊を見て、さらにびっくりした顔になった。


「なんてことだ」


 彼は口に手を当ててから、両手を頭に乗せた。


「ラベンダーの赤ちゃんだ」

「知っているの?」


 ジョーンズはこくりと頷いた。


「ああ、この子は妖精の王と女王の間に産まれた子供でラリーサという。三年前に黒い魔女にさらわれそうになったところを、アレイスターの魔法でどこかへ飛ばされたんだ」


 いろんな言葉が出てくる。

 わたしは頭に叩き込んで、後でしっかりグリモワールに書こうと思った。


「今も、ローワンとラベンダーは必死でラリーサを探している。二人に知らせてあげなきゃ」


 ジョーンズは興奮していた。

 わたしも赤ちゃんの両親が見つかって、こんなにうれしいことはなかった。


「よかったね、ラリーサ。お父さんとお母さんに会えるわ」

「やっと君の笑顔が見られた」


 ジョーンズがわたしの顔を覗き込んだ。


「思った通り、かわいい笑顔だ」


 わたしは口を引き締めて顔をそむけた。


「笑っておくれ、僕の花嫁」


 ジョーンズの言葉が軽々しく聞こえる。

 わたしは首を振って、笑顔の代わりに答えた。


「花嫁と呼ばないで」


 冷たく言うと、ジョーンズの顔が曇った。


「どうしてだい?」

「この話を続けるのなら、もう口をきかないわ」


 ジョーンズがお手上げというように肩をすくめた。

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