第5話 ペンを買ってきてあげるよ



 ずっと走り続けたので、気がつくと辺りは夕暮れに染まっていた。

 男が前を歩き始める。

 わたしは後をついて行った。


 男は、納屋のついているみすぼらしい宿に入った。この宿ならわたしを納屋で寝かせてくれるかもしれない。

 しかし、宿屋の主人はわたしを見ると顔を歪ませて首を振った。


「奴隷はダメだ。断る」


 男は呆然として主人に何か言い返そうとしたが、口をつぐむと何も言わずに宿を離れた。

 そして、小さくわたしに言った。


「すまない……。むやみに魔法を使うと敵に居場所が知れてしまう。他を探そう」


 その時、水の入ったバケツを持った女の子がどこからか現れて、おずおずとわたしたちに近づいてきた。


「あの…うちでよかったら、とお母ちゃんが言っているんだけど」

「え?」


 女の子の指さす方は、宿屋から少し離れた所にぽつんとある一軒家だった。


「いいのかい?」


 男が優しく尋ねる。

 女の子はちらっとわたしを見た。


「いいよ、その女の子も一緒に」


 そう言ってわたしの手を握った。

 マメだらけの手は冷たく、わたしよりもずっと硬かった。


「助かるよ」


 男はあぶみから足をおろして馬から飛び降りた。

 馬の手綱を短く持つとゆっくりと女の子に合わせて歩きだした。

 女の子の家はとても小さかった。


 囲炉裏を囲み、ロフトで眠る仕組みになっていた。他は板張りで農作業しかできるスペースはなかった。


「狭い所ですが、横になるだけでもどうぞ」


 女の子の母親が言った。

 女の子はとてもかわいい顔だったが、お母さんは白髪交じりのくたびれた感じの人だった。

 わたしは納屋で休もうとすると、男が止めた。


「待って、君は僕と寝るんだ」


 わたしは顔が引きつった。

 冗談じゃない。見知らぬ男と眠れるはずがない。

 わたしの表情を見て女の子のお母さんが、


「女性は時に一人になりたい時もあります」


 と、やんわりと諭してくれた。

 おばさんに感謝しながら、わたしは一人納屋に向かった。

 納屋には痩せたメス馬が一頭と鶏、豚がいた。馬は綺麗に毛をすいてもらっていて、大切にされているのが分かった。


 隅の方でうずくまっていると気付くと寝入っていたらしい。

 がたっと言う物音で目が覚めた。


「あ、起こしたかな、すまない」


 男が入って来て、パンとチーズ、ミルクを乗せたトレーを差し出した。

 それを見ると、ごくりと喉が鳴った。


「お腹空いたろ。食べて」


 床にトレーが置かれるなり、わたしは手を伸ばしてチーズを貪った。

 こんなにおいしい物を食べたことはない。

 ガツガツ食べてしまうと、男は笑ってわたしを見ていた。


「ゆっくり食べなきゃ、喉に詰めるよ」


 男がしゃがむ。

 食べ物がなくなっても男はその場を離れない。わたしは気まずくてもじもじとお尻を動かした。


「さっきも言ったように、僕はジョーンズ。ジョーンズ・グレイと言う者だ。僕は魔法使いだ。けれど、これから先は魔法は使えない。僕たちはカッシアへ向かっているのだけど、そこに辿りつくのにいくつか山を越えて村も通り抜けなきゃいけない。しかし、今はティートゥリー王の支配下が強まり、どこに敵が潜んでいるか見当もつかない状況にある」


 聞き慣れない言葉ばかりでよくわからない。

 ティートゥリー王とは何だろう。


 ジョーンズはわたしの気持ちを読み取ったのか、


「ティートゥリー王とは冥界からきた闇の支配者だ」


 と答えた。


「今から三年前、アニスと八つの妖精たちは冥界の扉を閉めることに成功した。しかし、扉を閉める鍵となったアニスは行方不明になり、扉を破壊してパースレイン国を譲り受けたエヌビット国王は、その後、ティートゥリー王に殺された。いまや、パースレイン国を支配する冥界の王は、徐々に支配を拡大し、全世界を乗っ取ろうとしている。それを食い止めるには、各国の防御力を強くしていかなきゃいけない。そのために、君は僕と結婚をする」


 わたしは最後の一滴までミルクを飲み干そうとカップを傾けて聞いていたが、あまりにびっくりしてカップを床に落としてしまった。


 ジョーンズが拾ってわたしに渡す。


 この男は頭がおかしい。


 なぜ、わたしと結婚したいと思うのか。

 みじめで泣きたくなってくる。

 わたしが何も言わないので、ジョーンズは大きく息を吐いた。


「僕は頭がおかしいわけじゃない」


 魔法使いは、心の声が聞こえるのだろうか。

 急に不安になる。

 わたしがそわそわしだすと、厠に行きたいのか、と聞かれた。


 え、ええ、行きたいわ、とすかさず頷いた。

 外を出た所にあるよ、とジョーンズが言った。


「そうだ。君は日記を持っていたね。ペンはあるの?」


 ペン?

 そんなもの持っていない。

 わたしが首を振ると、ジョーンズが待っていて、と言った。


「ペンを買ってきてあげるよ」


 その言葉はまるで魔法だった。

 体が動かない。逃げるのは、そう今じゃなくてもいいかもしれない。

 ペンをもらってから逃げよう。


 ジョーンズは納屋を出ると用意していたのか、馬にまたがって宿の方へ走って行った。

 わたしはおとなしくそれを見ていた。



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