第3話 謎の男
翌朝、朝日が昇る前に起きて、水汲みを始めた。井戸で水を汲んでいると、馬の足音がした。
振り向くと茶色い大きな馬が目の前に立っていた。
思わず桶を井戸の中へ取り落とした。
桶が大きな音を立てる。
わたしはとっさに逃げようとした。
「待ってっ」
馬上から男の声がした。条件反射で立ち止まる。
「怖がらないで、何もしないから」
穏やかで優しい声だった。
わたしは両膝を突くと、両手を前に差し出して頭を下げた。
「何をしているんだい?」
男が不思議そうに言った。
わたしはいつもこうやって、自分を差し出して生き延びてきた。
できればわたしを無視してどこかへ行ってくれればいい。そう願ったが、男はずっとそこにいた。
「さあ、顔を上げて、君のご主人の所へ案内しておくれ」
男の言葉にわたしは青ざめた。
冗談じゃない。主人はもしかしたらわたしの存在すら知らないかもしれないのに。
わたしは震えた。しかし、声を出すわけにいかなかった。
「あんた! 何だねっ?」
静けさを破ってメイド頭の怒鳴り声がした。緊張が解けてわたしはほっとした。
助かった。
「この奴隷に何か用かい?」
メイド頭は男をじろじろ眺めて言った。わたしは恐る恐る顔を上げて相手を見た。
男は紺色のローブをまとい、フードもかぶっていた為、顔が見えなかった。
「この少女を自由にしてあげて欲しい」
男が言った。わたしはぶるるっと震えた。
「金を払いな」
メイド頭がふんっと鼻を膨らませて言った。
「ここに金貨がある」
男が取り出したのは間違いなく本物の金貨だった。
メイド頭は涎を垂らさんばかりに、男の手から金貨を奪った。
「ドブネズミ、次のお前の飼い主だ」
「ドブネズミ?」
男が声に怒りを滲ませた。
「名前があるだろう。なんでそんなひどい名を…」
「ドブって名だ。それ以外は知らないさ」
メイド頭はそれだけ言うと、屋敷の方へ戻っった。
取り残されたわたしは恐怖に震えていた。
これからどうなるのだろう。
不安で息ができない。
「おびえなくていいよ、アニス。僕だ。ジョーンズだよ、君を助けに来たんだ」
アニス?
何を言っているのだ。
この男は人違いをしているようだ。
わたしはアニスではない。
わたしは顔を上げずに首を振った。
人違いに気付いて、笑って去ってほしかった。
だが、男はなかなか去ろうとせず、ずっと手を差し出している。
彼の手は泥にまみれ傷だらけだった。
その傷をじっと見つめていると、わたしの視線に気づいて、男はゆっくりと手を引っ込めて恥ずかしそうに笑った。
「ごめんよ、こんな汚れた手で。君を探すために旅に出て三年が過ぎたよ。世界はすっかり変わってしまった。僕も三つ年を取った。ようやく君を見つける事ができた。正直言うと、君が三千人目なんだけど、間違いない。君はアニスだ」
男がそう言った時、
「ご主人さま、前回もそのまた前の時も、その前の前の……ずっと前の時も、毎回、同じことをおっしゃっては間違っておられます」
馬の上から突如、銀髪の美少女が現れた。
わたしと比べるとしたら、彼女が月でわたしはウジ虫くらいの差がある。
「エヴァンジェリン、余計なことを言うな」
わたしはほっとした。
この男はドジな性格であるらしい。
こっそりと顔を上げて、相手の顔を窺う。顔はヒゲで覆われて目しか見えないが優しそうに見えた。
「ご主人さま、時間の無駄です。次へ行きましょう」
美少女の言うとおりだ。
わたしはアニスではない。
だから、早く去って欲しかった。
「しかし、金貨で買ってしまったし、君もこれから困るだろう」
「わたしがあのメイドに術をかけて操ってきます」
「その必要はないよ。この子はアニスだ。僕には分かる」
美少女が明らかに大きなため息を吐いた。
「さあ、おいで」
男がもう一度手を出した。
わたしは迷いながらもおずおずと立ち上がった。
顔を上げてみせると、男が息を呑んだのが分かった。
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