第14回/貴方の淹れる恋の香り/総合3位

第1会場10番

1位票:8/2位票:6/3位票:3

会場2位/総合3位



《あらすじ》

両親を亡くし、親戚に引き取られた聡花は奴隷のような日々から逃げ出すことを決意した。

東京に出てきた聡花が見付けたのは、裏路地にある喫茶店。

住み込みでアルバイトをさせてもらえるようになった聡花は、喫茶店での日々に心が解けていくのを感じていた。

二十歳ほども年の離れた店主の恭一に仄かな恋心を抱くも、この喫茶店が亡くした妻との思い出の場所だと知り、想いは隠すと決める。

喫茶店を利用する人々との交流も暖かく、幸せに過ごしていた聡花だったが、逃げ出した聡花を探す男が迫っていて……。

妻を亡くした恭一と頼る相手のいない聡花の年の差ラブストーリー。



《本文》

 もう、限界だった。

 かろうじて隠しておけたお金を全て財布に突っ込み、バイトに行く振りをして家を出る。

 バイト先には辞めることを伝えておいたが、引き継ぎは十分ではなかったかもしれない。

 けれど、もうここにはいられない。


 聡花さとかは東京行きの飛行機のチケットを買い、産まれてからずっと暮らしてきた北海道に別れを告げた。


 東京に来れば、たくさんの人のひしめく東京に来れば、見付からずに生きていけるかもしれない。

 そう思って何も考えずに出てきてしまったが、これからどうすればいいのだろう。

 両親を高校二年の時に亡くし、母の姉に引き取られてから三年。

 家とバイト先の往復しかさせてもらえず、携帯電話も取り上げられた聡花は、何も分からずに途方に暮れた。


(どうしよう……)


 空港内を当てもなく歩き、駅に着く。

 運賃表を眺めると、聞いたことのある駅名が目に入った。


 聡花は新宿までの切符を買い、電車に乗り込んだ。

 駅員さんに尋ね、品川で乗り換える。

 初めて立った新宿の街は、人でごった返していた。

 あまりの喧騒に思わず立ち竦んでいると、歩行者と肩がぶつかり舌打ちをされる。

 怒られる、と身構えたが、ぶつかった人はもう見えなくなってしまった。


 人ごみに紛れればと思っていた聡花だったが、太った男性が視界に入り込む度、条件反射のように身体が震えてしまう。

 耐えきれずに人気ひとけのない方へと歩いていた。

 駅から少し離れた裏路地にまで来た聡花は、微かなコーヒーの香りに気付いて立ち止まる。

 バイトしていた喫茶店では、コーヒーの淹れ方を褒められたこともあった。


 匂いに釣られるように足を進めると、焼けるパンと肉の匂いが混ざりこんでくる。

 ここ数日まともに食べていなかったことを思い出し、急にお腹が空いてきた。


 さらに進むと、雑居ビルの隙間にそれはあった。

 木目の美しい重厚な扉、少し薄暗い店内がガラス越しに見える。

 カウンター席の他に、品のいいソファやイス、テーブルが並んでいた。

 今はお客さんがいないらしい。

 聡花が扉を開けると、カランコロンと可愛らしい鈴の音が響く。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの向こうに立つ男性が、そう言いながら聡花の方を見た。

 マスターという言葉がとてもよく似合う、整った顔立ちの男性だった。

 撫で付けてある、少しだけ茶色みがかった髪は地毛だろうか。

 銀縁眼鏡の奥にある瞳は優しく細められ、目尻に少しシワが出来る。


 見惚れていたことに気付いた聡花は、慌てて席を探した。

 テーブル席はなんだか恐縮してしまって、カウンターに腰を下ろす。

 差し出されたメニューを恐る恐る受け取って開くと、整った手書きの文字があった。


(この人が書いたのかな……)


 字まで美しいのだと思いながら、目を滑らせる。

 店内に微かに響くジャズが、無言の時間を居心地のよいものに変えていた。

 さきほど嗅いだ香りが忘れられず、ブレンドとホットサンドを頼むことにする。


 カウンターの奥、カーテンの向こうには厨房があるらしい。

 店主の後ろ姿を目で追いながら、聡花は溜息を吐いた。


 これからのことを考えると、どうしたって気が滅入る。

 働かなくてはお金がなくなってしまうけれど、どうやって働き先を見つければいいのだろう。

 住む場所は?

 印鑑も通帳も取り上げられたままで手元にはない。


 ぐるぐると絡まり始めた思考を遮るように、コーヒーの香りが鼻をくすぐった。

 店主の骨ばった手が、ドリップポットから細くお湯を注いでいく。

 フィルターを通して濃い黒が落ちていった。


「紙じゃない……」


 自分の使っていたフィルターとの違いにぽつりと零すと、その声は思ったよりも大きく聞こえた。

 慌てて口を塞いで店主を見ると、こちらを見ていた視線とぶつかった。


「お詳しいんですね」

「あ……き、喫茶店で……バイトしてたことがあって……」

「これは布ですよ、ネルシャツって聞いたことありますか? あのネルと同じ、フランネル素材でできたフィルターなんです」

「へぇ……飲むの、楽しみです」


 そう言う聡花ににこりと微笑み、店主はまた作業に戻った。

 思いがけない会話に、聡花の身体はムズムズとくすぐったい。


 自分は一体どうしてしまったというのだろう。

 誤魔化すように店内を見回すと、一つの張り紙に目が吸い寄せられた。


『住み込みアルバイト募集』


 住み込み、アルバイト、それは今の聡花にとってあまりにも都合のいい言葉だった。

 ほっぺたをつねり、しっかりと痛いことを確認してから、張り紙の文字を何度も確かめる。

 夢ではなかった。

 この喫茶店の二階の空き部屋に住むことができ、家賃や光熱費などを差し引いた金額が給料として支払われるらしい。


 張り紙について店主に聞こうとしたとき、頼んだコーヒーとホットサンドがカウンターに置かれた。

 ありがとうございますと頭を下げて、まずは食事をすることにした。

 一口飲んだコーヒーは、今まで聡花が飲んでいたコーヒーより舌触りが滑らかで美味しかった。

 苦味が少なく、ほどよい酸味があり、とても好みのブレンドだった。


 カットされたホットサンドを掴み、ざくりと齧り付く。

 温かなトマトが飛び出してきて、慌てて噛み切った。

 ハムの塩気とレタスの食感が、バターの風味と混じり合って空腹を満たしていく。


「おいしい……」


 温かなものを食べるのはいつぶりだろう。

 コーヒーだけはバイトの休憩時間に飲むことができたが、食べ物は残り物ばかりで、電子レンジを使うことも許されなかった。

 思わず涙が出そうになり、必死で堪えながらホットサンドを食べる。


 全てがお腹の中に収まるのに、時間はかからなかった。

 美味しくてついがっついてしまったが、今更羞恥心が湧き上がる。

 もっと落ち着いて上品に食べるべきだった。


「お口に合ったみたいで、嬉しいですよ」


 掛けられた言葉に、瞬きを繰り返す。

 心が読めるのだろうか、なんてことを考えてしまい、すぐに返事ができなかった。


「あ、えと、その、とっても! 美味しかったです!」

「ありがとうございます」


 食器を下げながら微笑む店主に、あたたかい気持ちになる。

 おかわりはどうですかと尋ねられ、お願いしますと答えた。


 おかわりが運ばれてくるのを待って、聡花は募集について話をすることにした。

 住み込みバイトがしたいと言うと、店主は驚いたように聡花を見た。


「若いお嬢さんがするようなものではないと思うけど……」


 断られてしまうかもしれない。

 そう思うと、上手く言葉が出てこない。

 どう言えばいいのか分からず、結局聡花は今の状況について正直に話すことしかできなかった。


 両親とは死別したこと、母の姉に引き取られたこと、引き取ってくれた家での扱いがひどく限界を迎えたこと、手元にあったお金だけを持って逃げてきたこと。

 逃げることを決めた最大の原因については、話そうとすると言葉に詰まって涙が溢れてしまいそうで言えなかった。

 下唇を噛み締めて泣くのを耐える聡花に、店主はチョコレートを一粒差し出した。


「君がこれからどうしていきたいのか、それが決まるまでですよ」

「や、雇って、くれるんですか……?」


 受け取ったチョコレートと店主の顔を交互に見て、聡花は言った。

 店主は一度頷き、店内を見回す。


「実はね、ここ週に2回、子ども食堂をやっているんだ」

「子ども、食堂?」

「そう。十分な食事を食べられない子どもたちのために、無料で食事を提供してるんだ」

「そういうのが、あるんですね」

「それもあって、お手伝いの手が増えたらいいなって思っていたのだけど、君は、食堂に来る子どもみたいな顔をしているから」


 聡花はよく分からず、自分の頬を両手で包んだ。

 一体どんな表情をしているというのだろうか。


「だから、君の未来のために協力するよ。帰る場所がないというのは、苦しいものだから」


 その言葉は、何故だかとても実感がこもっているような気がした。


「ありがとうございます……あの、私、引き取られて金谷かなや聡花になったんですけど、もともとは高瀬たかせっていって、だから……高瀬聡花として、働かせてほしいです」

「分かりました。ぼくは高松たかまつ恭一きょういちです。よろしくね、高瀬さん」

「はいっ! よろしくお願いします……!」


 それから少し冷めてしまったコーヒーを飲み、貰ったチョコレートを食べた。

 ほろ苦くて、でも噛むうちに甘く溶けて、コーヒーによく合うチョコだった。


 店内の案内や仕事内容については明日説明するからと言われ、二階の鍵を渡される。

 本当は連れて行ってくれようとしたのだが、ちょうど新しい客が店を訪れたため、聡花が遠慮したのだった。

 食事の代金を払おうとすると、「まかないということにしておきます」と言われ、受け取ってもらえなかった。


 聡花は深く一礼し、喫茶店を出た。

 喫茶店のある建物の右端に階段があり、上っていくと扉がある。

 三階が高松の住まいらしい。


 受け取った鍵で扉を開けると、廊下の先にリビングが見えた。

 喫茶店と同じだけの広さがあるのだ、聡花はあまりの広さに圧倒された。


 ここに、住んでいいんだ。


 ほとんど物置同然の狭い一室で暮らしてきた聡花は、何もないフローリングの床にごろりと寝転び、伸びをした。


 新しい自分として、生きていける気が、した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る