第39話 記憶の中の光景

「ハルくん!? ちょっと……ハルくん!!」


 どこか遠くから、棗先輩の声が聞こえた。酷く慌てた呼び掛け。返事をしようと思っても、何故か声が出せない。それどころか、身体も動かせない。

 薄い紗幕一枚隔てた先に自分の身体がるようで、こちらから命令を出しても上手く伝わらないのだ。


「陽様!」


 御影さんの声まで聞こえてきた。何やら、切迫した彼らのやり取りを聞くともなしに聞きながら、オレはひたすら頑張って瞼を持ち上げようと試みた。

 徐々にだが、紗幕の先の身体と意識が繋がり始める。感覚が戻ってきた。と同時に、唇に何やら熱くて柔らかいものが覆いかぶさっていることに気が付く。

 ようやくうっすらと開いた視界の先、理解し難い光景を目の当たりにして、オレの頭はまた真っ白になった。

 

 ――御影さんのどアップ。

 長い睫毛の一本一本まで確認出来そうな程の近距離に、彼の人形めいた綺麗な顔があったのだ。

 何だこの状況。

 思った直後、盛大に咳き込んだ。御影さんの顔が離れていく。心配そうなその表情は、やがて安堵のそれへと代わり……そこから先は、再び幾重にも降りてきた紗幕に覆われて、もう完全に何も分からなくなってしまった。



   ◆◇◆



 気が付いたら、自室のベッドに横になっていた。最早見慣れてきた天蓋をぼんやりと眺め、鈍く思考する。

 ――あれ? オレ、いつの間に戻ってきたんだっけ。

 もう夕飯を終えて床に就いたのかと錯覚しそうになった時、横から声を掛けられた。


「陽様、お目覚めになられましたか」


 御影さんだった。

 何で御影さんがオレの部屋に?


「お身体の具合はいかがでしょうか」


 身体?


「……オレ?」

「陽様は、ご入浴中にのぼせて湯船で溺れかけてしまわれたのです」

「えっ」

「棗様の悲鳴を聞いて、近くを通りかかった私が僭越ながら対処致しましたが、陽様はそのまま意識を失くされて……ご心配致しました」


 近くを通りかかった? いや、あんなとこ用あるか?

 それはともかく、オレは入浴中の出来事を改めて思い返してみた。すると、顔に熱が上がるのを感じた。

 ……そうだった。棗先輩に全力で揶揄われたんだった。

 え? 嘘だろ? オレ、あんなことで興奮し過ぎてのぼせたのか!? ダサ過ぎるだろ……。

 でもさ、しょうがないじゃん!? そういう経験無いんだから! 棗先輩、女の子みたいに可愛いし! あんなの刺激が強過ぎるって!


「陽様? やはりまだお身体の調子がよろしくないのですか」


 両手で顔を覆って呻いていたら、御影さんに心配されてしまった。


「……いや、もう大丈夫」


 そう答えたものの、御影さんは納得いかないようで、視線の圧が凄い。オレが内心冷や汗を掻いていると、彼は改まった様子で訊ねてきた。


「……棗様に、何かされたのですか?」

「へっ?」

「そうでなければ、陽様がご入浴中にのぼせるなんて……ああ、やはりあのようなご契約、断固として反対すべきでした。一度陽様にご注意を受けてから、過干渉を控えるべく努めて参りましたが……それで陽様の御身が危険に晒されるようなことがあっては本末転倒です」

「み、御影さん?」

「陽様、今からでも棗様との偽装恋人の件はお断り致しましょう。陽様はまだお身体も本調子ではないでしょうし、私が代わりに交渉に伺います」


 唐突な申し出に、オレは慌てた。


「いや、でも一度約束したことだしさ、確かにちょっと揶揄われはしたけど、別にそんな酷いことをされた訳でもないし」

「ですが……」

「それに、友達が困ってるなら力になりたいじゃないですか。オレと恋仲ってことにするだけで先輩のことを守れるのなら、断る理由もないっていうか」

「本当に、それだけでしょうか。――棗様の目的は」

「え?」


 不意に低いトーンで発された言葉に、ドキリとした。

 御影さんの紫の瞳が、端からじわりと赤みを帯びる。

 刹那、鋭い光を放ち、それはすぐに霧散して消えた。


「いえ、何でもございません。出過ぎた真似を致しました。主人がご決断なさったことに意義を唱えるなど、使用人のすることではありませんね。申し訳ございません」


 腰を折って、礼をする。先程の物騒な気配はどこへやら、すぐさま柔和な態度に戻った御影さんに、オレは何だか気圧されてしまった。


「いや……別に」


 何だったんだ? 今のは。

 まぁ、確かに棗先輩のあの様子だと、オレを揶揄うのも目的の一つだったりするのかもしれないけど……それでも、困ってることに嘘は無いだろう。


「それでは、陽様。お身体には何も異常はございませんね?」

「うん、大丈夫。心配かけて、ごめん」


 念押しの確認を受け、内心苦笑しつつ答えた。全く、御影さんは本当に心配性だなぁ。

 ていうか、そうだ。助けてもらったお礼をまだ言ってなかった。


「あと、ありがとうございます。また色々お世話になってしまって」

「いいえ、そのような……勿体無いお言葉でございます」


 御影さんは、感極まったように瞳を輝かせて顔を上げた。架空の尻尾がぶんぶん振られているのが見える気がして、何だか和んだ。

 それにしても、元水泳部が風呂場でのぼせて溺れかけただなんて、全く笑えない話だ。

 ……ん? そういや、風呂場で助けられたってことは、よく考えてみれば、オレ裸じゃん!?

 は!? 御影さんに裸見られたってことか!? はぁあ!?


「陽様、いかがなさいましたか? やはり、お身体の具合が!?」


 突然、悶絶し始めたオレに、御影さんの心配性スイッチが再び入ってしまう。


「い、いや、それは大丈夫! ……なんだけど、その……オレの裸、見ました?」


 いや、何聞いてるんだ、オレ!?

 御影さんも虚を衝かれたように固まっている。暫しの間の後、彼は真顔のまま硬い口調で答えた。


「……いいえ、あまり見ては失礼に当たると思い、極力視界に入れないよう尽力致しましたので、ご心配には及びません」

「そ、そっか……ならいいんだけど」


 本当だろうか。いや、うん……男同士なんだから、何も恥ずかしいことではないはずなんだけど、何て言うか……完璧過ぎる御影さんにオレの中途半端な身体を見られたかと思うと、その……あぁあっ!


 再度悶絶しそうになったオレの脳裏に、ふと一つの映像が浮かんだ。

 ――御影さんのどアップ。

 意識を失う前に見た光景。これは……記憶?

 途端、唇に熱く柔らかいものの感触が蘇ってきた。思わず、確かめるように自らのそこに指先で触れる。


 は? え? もしかして、オレ……御影さんとキスした!?

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