第38話 素肌でゼロ距離誘惑

 湯船に浸かると、じんわりと疲労感がお湯に溶けだしてきた。


「ふぅ、今日は色々大変な一日だったなぁ」


 大理石で出来た広い浴槽に肩まで沈んで、独り言つ。最近は棗先輩と夕食後に連れ立って来ることが多かったが、今日は体育祭で汗を掻いたので、帰寮してすぐに一人で大浴場に来ていた。

 ミドリさんの件に始まり、借り物競争での騒動やら、果ては棗先輩と交わした契約のことやらが脳裏を過る。


 ――よろしかったのですか? 陽様。


 最後に浮かんだのは、御影さんの問い掛け。そして、いつも通り心配そうな彼の顔。


「偽恋人契約……か」


 不安が無い訳でもないが、正直そこまで深刻に捉えてはいない。御影さんは事情を知ってるから、彼の前でまで恋人のフリをしなきゃいけない訳じゃないし……まぁ、何とかなるだろう。


 それより、後でミドリさんにメッセージを送っとかなきゃな。自分から友達になってくれと頼んでおきながら、借り物競争ショックで後半上の空だったのは、あまりにも失礼だったと思う。ちゃんとフォローしとかないと。


 そう考えながら、無意識に髪に触れようとして、指先が空を切った。ああ、そうだった。もうエクステは外してもらったから、普段のショートに戻ってるんだった。

 今日一日ロングだったものだから、つい……やばい、長い方に慣れつつあるな。

 このまま女装にも慣れてきてしまうんじゃないかと空恐ろしい気分になった時、不意にぬるい風が浴室の空気を掻き混ぜた。


 おや、と思って見ると、洗い場の扉を開いて棗先輩が顔を出した。まぁ、ここは姫専用の大浴場なんだから、他の誰かな訳がない。

(ちなみに、オレ達の使用時間外は御影さん達使用人も使っていいことになっているぞ)


「先輩、お疲れ様です」


 オレが挨拶をすると、棗先輩は何故だか不服そうに唇を尖らせた。


「はい、やり直し」

「へ?」

「最近、ハルくん慣れてきちゃって反応薄いけど、そんなんじゃダメじゃん。ボク達は〝恋人〟なんだから、もっとドキドキしてくれないと」

「ど、ドキドキって……恋人って、あくまでフリ、ですよね?」


 しかも、こんな第三者の目の無い所で?


「そうだけど、普段からそういう意識でいないと、いざっていう時ボロが出ちゃうでしょ」


 困惑するオレに、棗先輩は反らした自身の胸に手を置き、説く。


「想像してみて? ボク達は恋人同士。二人っきり、互いに一矢纏わぬ生まれたままの姿で……好きな人の裸が、手を伸ばせば触れられる程の近距離にある。それで、そんなに平静で居られる訳ないでしょ?」

「うっ……」


 色白で華奢で、まるで女の子みたいな棗先輩の身体。普段からあまり直視しないようにしていたものを、改めて言葉で意識させられてしまうと、何だか落ち着かなくなってきた。

 オレが思わず目を逸らすと、クスリと棗先輩の笑む気配がした。


「そう、その調子」


 とぷん、と響く水音。水面が揺れてさざなみ立ち、棗先輩の入湯を報せる。

 うわ……何か緊張してきた。一緒の入浴なんて、もう何回も経験しているのに……先輩が変なことを言うからだ。

 俯いて明後日の方を向いていると、不意に濡れた感触が肩に触れて、飛び上がった。


「ひゃっ!?」


 クスクスと愉快げな笑声。肩に触れたのは、棗先輩の手だったようだ。


「ハルくん、驚き過ぎ~」

「せ、先輩! 揶揄わないでくださいよ!」

「揶揄ってなんかいないよ? ハルくんがちゃんとボクにドキドキしてるか、チェックしとかなきゃな~と思って」

「チェック?」


 直後、するりと背後から先輩の腕が伸びてきた。


「な、棗先輩!?」


 抱き締められる。背中に伝わる温もりと、滑らかな肌の感触。強張った身体に動揺が走った。


「さぁて、どうかな?」


 前面に回された手が、焦らすようにゆっくりとオレの胸元を撫で上げる。詰まる息。跳ねる鼓動。強く脈打つそれを確かめるように、心臓の上に掌を置くと、棗先輩は満足そうに笑みを零した。


「凄いドキドキしてるじゃん……良い子」


 唇が触れる程近くから、耳朶に囁き掛ける先輩の声。熱い吐息が産毛を揺らして、ぞくりとした感覚が首筋から全身を駆け巡る。

 あ、やばい、これ。

 先輩が身動ぎをする度に、背中に擦れる素肌の感覚。当たる二つの硬い感触は、まさか先輩の胸の――。


「だ、駄目です、先輩! 離れてください!」


 慌てて思考を遮って、棗先輩の腕を振りほどいた。


「なぁに、ハルくん。そんなに慌てて……まさか、男相手にっちゃった?」

「勃っ!?」

「うんうん、しょうがないよね、ボクみたいな超絶美少年を相手にしたらね。何もおかしいことじゃないよ? 健康な証だって」

「っ!? ……っ!?」


 言葉を失くしてパクパクと金魚みたいに口を開閉するオレに、棗先輩は悪戯げな笑みを浮かべてにじり寄る。


「そうだね。ハルくん自分でしたことも無さそうだし……責任取って、ボクが抜いてあげよっか?」

「抜っ、な、えっ!?」


 その時、背中が浴槽の壁に当たった。もうこれ以上、後ずさりも出来ない。逃げ場が無くなった。先輩が更に近付いてくる。

 濡れたピンクの髪。妖しげな悪魔の微笑。白く艶めかしい肢体が透明な湯の中から見え隠れして、目を逸らしたいのに逸らせない。焦りと高揚感が胸を打つ。熱い。息苦しい。


「ハルくん……」


 白く細い腕が、こちらに伸ばされて……。

 そこから、オレの意識はふっつりと途絶えた。

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