第12話 姫になるということ

 帰寮すると、オレはすぐにシャワーを浴びた。温水を使っても、身体の震えはなかなか収まらなかった。濡れた水着のまま運ばれて、身体が冷えたせい……だけではないだろう。先輩達に触られた箇所を洗う度、その一つ一つの記憶が生々しく取り出されては、何度もオレを責め苛んだ。

 ぐるぐるとした思考のまま、部屋着に着替えてシャワーブースを出る。ふわりと甘い匂いが嗅覚を刺激した。


「僭越ながら、ココアをご用意致しました。お身体が温まりますよ」


 室内では御影さんが待っていた。オレの様子がおかしいので心配して世話を焼きたがり、オレもそれを拒まなかった為、入室を許可した形になっていた。

 御影さんは柔和な笑みを浮かべて、湯気を立てるマグカップをローテーブルに置く。オレはか細く礼を述べると、ソファに腰を下ろし、それを手に取った。軽く息を吹きかけてから、口を付ける。濃厚なチョコとミルクの風味が喉の奥に広がり、温かな液体が体内を満たしていく。強張っていた身体と心が解れる感覚に、オレはホッと息を吐いた。


「お荷物は、そちらに。制服の方はアイロン掛けをしてクローゼットに直させて頂きました」


 御影さんは宣言通り荷物を取りに戻ってくれたらしい。報告に小さく首肯を返すと、オレはそのまま俯いた。今、荷物の中身を確認したくはなかった。失くした下着のことが、どうしても頭から離れない。


「……陽様、何があったのか、お聞きしてもよろしいでしょうか」


 御影さんが、慎重に切り出した。思わず身を竦ませたオレに、彼は優しく続ける。


「勿論、無理にとは申しません。陽様がお辛いようでしたら、私はもう何も伺いませんので、ご安心くださいませ」


 親身な声音。労わるような眼差しの温度に、オレは喉につかえていたものが氷解していくのを感じた。詰めていた息と共に、ぽつりと吐いた。


「……御影さんの、言う通りだった」


 紫の瞳が、軽く瞠られた。


「オレ、何も分かってなかった。姫になること……自分が、周りからどういう目で見られるのかってこと」


 ――なんにも、分かってなかった。


 姫といったって、女装したただの男だ。増して、普段からずっと女装なわけでもない。男同士で、そんなこと……御影さんが危惧するようなことが、あるわけがないと思っていた。

 なのに――。


「怖かった……」


 初めて晒された、害意。られる度、触れられる度、自分がどんどん汚いもののように思えてきて……。


「オレが、御影さんの忠告を聞かなかったせいだ。自業自得ですよね……おかしいとか、酷いこと言って、ごめ」


 謝罪の言葉は、途中で途切れた。不意に、御影さんに抱き寄せられ、気が付いたら屈んだ彼の胸に顔を埋める姿勢になっていた。虚を衝かれて固まっていると、頭上から声が降ってくる。


「謝らないでください。貴方は何も悪くありません」


 気遣わし気な、酷く優しい声音。


「私こそ、命令に背いてでも貴方を一人にさせるべきではなかった。……怖かったですよね。もう、大丈夫です。これからは、私がずっと貴方のお傍に居ります。もう、誰にも貴方を傷付けさせはしません。何があっても、必ずお守り致します」


 熱の籠った宣言。包み込まれた腕の中、自分が震えていたことに今更ながらに気が付く。御影さんの手は力強くて、いつかの父さんを思い出させた。

 ふと、張り詰めていたものが緩み、押さえていた衝動がせきを切る。


「……っ、ふ、」


 ぽろり、一粒。涙の雫が零れ落ちると、後から後からそれは溢れて、止めどなく続いた。


「ぅ、うぅー……ッ」


 怖かった。怖かったんだ。

 もしかしたら、先輩達にとっては、それはただの揶揄いや遊びで、本気ではなかったのかもしれないけれど……それでもオレは、怖かった。

 何をされるのかと、ずっと怯えて震えていた。

 そして、そんな自分が情けなくて、どんどん嫌いになって……。


 御影さんの胸に縋りついて顔を隠し、オレは子供のように声を上げて泣いた。御影さんはそんなオレを宥めるように、無言でずっと優しく背を擦っていてくれた。



   ◆◇◆



 こんな風に泣いたのは、いつぶりだろう。思えば、父さんが日本を発ってから、オレは意識的に泣かないようにしていた。

 一頻り泣いて落ち着いた頃、遅まきながらに羞恥がやってきた。顔を伏せたまま、オレは御影さんの胸を押して、身を離す。


「……も、大丈夫だから。ごめん、みっともない所見せて」

「いいえ、そんなことはありませんよ。私の方こそ、許可も無くいきなりお身体に触れてしまい、申し訳ありませんでした」

「いいよ。お蔭で、落ち着いたし」


 不思議と、御影さんに触れられても怖くはなかった。この手はオレを害さない。何故か、そう思えた。

 深く息を吸い、決意を告げる。


「水泳部には、もう行かない。部活は……暫く考える」


 御影さんが、神妙に頷きを返した。それから、問う。


「彼らへの此度の処分は、如何致しましょう」


 ぞくりと心の冷えるような、凄然とした怒気を孕んだ声音だった。紫の瞳が剣呑な光を帯びている。

 ――御影さん、怒ってる。

 放っておくと、先輩方に対して一体何をしでかすのか分からなかったので、オレは内心焦って答えた。


「や、何もしなくていいよ」

「しかし……」

「大事には、したくないし……もう関わらなければ、大丈夫だろうから」


 不服そうな彼を制して、この話はここで切り上げた。

 その後、棗先輩に腫れた目を見られたくなかったので、夕食はワガママを言って部屋まで運んでもらった。……大浴場へは、今日も行かなかった。

 後々、意を決して荷物を検めたら、失くしたはずの下着は二枚とも戻って来ていた。だけども、それを使う気には到底なれず、オレはそれらをゴミ箱に突っ込んで、蓋をした。

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