第11話 無遠慮な視線と手

 塩素の匂いは、やっぱり落ち着く。プールで泳いでいる時、そこには自分だけしか存在しない。音も世界も、周りの全てを遮断して、嫌なことも何もかも忘れ、一人静かに自分と対話しているような、そんな気分になる。

 ――だからオレは、泳ぐのが好きだった。


 壁に手を付いて止まると、振り向いてゴーグルを外し、先輩達の方を窺う。


「ど、どう……でしたか?」


 まずは、どのくらい泳げるのかが見たい、との提案を受け、軽く折り返し五十メートルをクロールで泳いでみせたところだった。

 正直、そんなに速くはない。小柄で手足も小さいオレは、どうしたって推進力で他の人達に劣ってしまう。でも、フォームには自信があった。中学の時の顧問の先生にも、泳ぎ方が誰よりも綺麗だと褒めてもらえたことがある。

 なので、先輩にこう言われた時は、耳を疑った。


「んー、悪くはないんだけど、ちょっと違うな」

「え?」


 隣のコースの先輩が、ロープを潜ってこちらにやって来た。不意に後ろから抱き寄せられるようにして、腕を掴まれる。背を覆う人肌の感触と体温に、オレは思わず身を固くした。

 先輩は構わずオレの腕を掴んだまま、水を掻く仕草をさせてみせる。


「そうだな、手をもっとこうしたら良くなるんじゃないか? こう……」


 アドバイスを口にしながら、同じ動作を繰り返す。その度に肌と肌が擦れ、産毛が逆立った。首筋に落とされる熱い吐息が生々しい。


「わ、分かりました……やってみます」


 硬直が解けると、オレはそそくさと先輩から身を離した。また別の先輩が新たな提案を投じる。


「足の型もしっかり見直した方がいいかもな。ちょっと、壁掴んでバタ足してみせてよ」

「はい……」


 嫌な予感がしたけれど、否とも言えない。言われた通りにしてみせると、案の定、今度は脚を掴まれた。


「腿の辺りをこう……もっと内側に締めて」


 言いながら、先輩の手が太腿の内側の際どい所に滑り込む。ぞくりと、背筋が粟立った。


 ――何だろう。


「今日は折角姫が来てるから、普通に泳ぐだけじゃつまらないし、水球でもやろうぜ!」

「おぉ、いいね! 更衣室に道具あったよな!」


 ――皆やけに、触ってくる。


「姫、パース!」

「させるか!」


 ボールが飛来すると、周囲が一斉に群がった。掴まれる肩、腕、腰、抑え込まれた身体。手が、胸を撫ぜる。


「よっしゃあ! シュート!」


 ――気持ち悪い。


 ダメだ。こんなこと思ったら、失礼だ。

 こんなの、普通のこと。何でもないことなんだ。御影さんが変なこと言うから、変に意識してしまっているだけだ。きっと、そうだ。

 ともすれば湧き上がりそうになる疑念と嫌悪感を押し殺し、後の時間をオレはひたすら耐えてやり過ごした。


「お疲れ様~!」

「いやぁ、今日は楽しかったなぁ」

「姫、明日も来てくれるかな?」


 問われて、オレはまた曖昧な笑みで誤魔化した。

 ……でも、やっと終わった。安堵感に、深く息を吐く。明日のことは後で考えるようにして、今日はもう帰ろう。何だかやたらに草臥くたびれた。

 皆で更衣室に向かった。後はもう、着替えて帰るだけ、という段になって――遂に、決定的なことが起きた。


「……あれ?」


 ロッカーを前に、凍り付く。

 無い。何度荷物を検めても、ある物が見つからない。


 ――下着が、無い。


 青ざめる。何でだ? 何で、無い?

 替えは、確かに入れてきた。なのに、替えどころか着てきたやつまで無い。二枚とも無くなるなんて、そんなこと有り得ない。――まさか。


「姫、どしたん?」

「着替えないのー?」


 声を掛けられ、恐る恐る振り向いた。先輩達がにやにや笑いでこちらを窺っている。鼓動が不穏に脈打つ。


 ――盗られた?


 誰に? 何で?

 ロッカーの鍵は掛からない。皆、途中で一回はトイレに抜けたりしていた。更衣室はその間無人で、誰でも入れてしまう。誰にでも、やろうと思えば犯行は可能だった。


 先輩達の笑顔が、歪んで見えた。全員が全員、怪しく見えてくる。

 そんなまさか、と思う気持ちと、どこかで、やっぱり……と思う気持ちが綯い交ぜになって、くらくらと目眩がしてくる。


「姫? 疲れちゃった?」

「何か手伝おうか?」


 回る。廻る。世界が回る。――気持ち悪い。


「身体、拭いてあげようか」

「脱がせてやるよ」


 伸ばされる手、手。――嫌だ、怖い。

 だけど、声が出ない。喉の奥が張り付いたように塞がっている。身体が動かない。――怖い。


 助けて。


 コンコンッ

 その時、更衣室の扉をノックする音が聞こえた。

 ハッとして、場の全ての動きが止まる。扉の外から声がした。


「陽様、こちらにいらっしゃいますか?」


 ――御影さんだ!


「申し訳ありません。寮で待つように命じられていたのですが、お帰りが遅いように感じられたので……お迎えに上がりました」


 御影さんは遠慮がちに言う。オレの命令を破ったことを気にしているのだろう。あんなに冷たく突き放したのに……それでも、心配して来てくれた。

 喉の奥がギュッと摘まれたようになり、目頭が熱くなった。絞り出すように、呼ぶ。


「……御影さん」


 弱々しいオレの声音に何かしら感じ取ったのだろう。刹那の間の後、御影さんは入室を告げるが早いか、扉を開いた。

 酷く慌てた表情だった。オレを見て、驚いたように息を呑む。それから唇を引き結び、彼は燕尾服の上着を脱いだ。無言でそれを、オレの肩に着せ掛け――。


「失礼致します」


 直後、オレは宙に浮いていた。突然のことに頭が真っ白になり、御影さんに抱え上げられたのだと気が付いたのは、数拍後のことだった。


「陽様はお加減が優れないようですので、このままお連れ致します。荷物は後程取りに参りますので、そのままにしておいてください。……余計な手出しは、なさいませんように」


 周囲の先輩方に突き刺すような眼差しで牽制すると、御影さんはオレを横抱きにしたまま更衣室を後にした。

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