3話:退職、そしてお疲れ様でした。
そして時間が経ち、あっという間の退職日。
俺は働いているたくさんの方々に挨拶を交わした。
これからもがんばれよ、お前ならやっていけるなどと、まるで俺だけが退社するかのような言葉を掛けられた。
……まさか、な?
なんて冗談はさておき、ここには随分とお世話になった。
会社を出て振り返ると事務のおばさんや社長が見送ってくれた。
「お世話になりました」
頭を下げた。
今までの感謝の意を込めて。
「気をつけて帰れよ。本当にすまなかった」
名残惜しくも俺は会社を後にした。
しばらく歩いているとスマホが鳴った。
表示されているのは[菊沢花]次の職場の上司、いや社長である。
『もしもし』
「はい、西野です」
『今日までお疲れさまでした』
「ありがとうございます」
『早速ですが、これからの話を少しだけ電話でよろしいですか?』
「はい、お願いします」
『仕事は明後日からです。まずは送った住所に向かってください。その日は1日お片付けをよろしくお願いします。そんなに物はないので時間は掛からないと思います』
あれを見て、そんなの物はないとはどういった思考回路なのか教えていただきたい。
「はい」
これに関しては敢えて何かを言うことはやめておくことにした。
『1週間以内に片付けをして、その物件を引き払いします』
「え?」
『あれ、言い忘れてましたっけ? そこの家は元カレのためにわざわざ借りた安めのアパートです。そこの家にはもう住みませんよ』
「だから家具とか送る住所が違ったのか……」
『私、正体隠してるんですよ。ほら、金持ってると思われるとめんどくさそうだなぁって』
それは理由が何であれ、振られても何も言えないよな……。
「だったら雑誌に出るのやめた方がいいですよ」
『一理ある』
元彼氏さんへ。あなたは大きな魚を逃しました。しかし、世の中お金じゃないこともありますよね……。気付いてないかもしれませんが。
『なので、ここからはまず引っ越し作業です』
「またかよ」
『何か言いましたか?』
「仰せのままに」
引っ越し作業はついこの間までやっていたことだ。住み込みで働くとはそういうことで、俺は自分の引っ越しの準備もしていた。それでまた引っ越しとはいくら仕事とは言え、連続でやるのは嫌になるものだろう。
『それが終わればきっとあなたにも良いことがありますよ』
「そうですか。あまり期待を膨らませずに頑張りたいと思います」
『ひとまず、2日間しか休みがありませんがゆっくりとお休みください』
「お気遣いありがとうございます」
『それで、もしよければなんですけど』
「なんですか?」
『今夜、私とご飯でもどうですか? もちろん私のおご——』
「行きますっ!」
『やけに食い気味なのが気になりますが……何か食べたいものは?』
「やっぱり肉ですね! 美味しいやつが!」
今の俺に男としてのプライドなんて一ミリもない。奢られるなら、とことん奢られてしまえ、ホトトギス。
はい、意味不乙。
『分かりました。では手配しておきましょう。今日はお疲れ様会です』
「やった、楽しみにしてます!」
『また連絡します』
そう言って、彼女との電話は終わった。
思わずガッツポーズ! 人生最高!
「よっしゃぁ!」
社長御用達のお肉のお店なんて絶対美味いとこ。高いお肉でしょう!
俺はルンルン気分で帰路へ着いた。
****
家に帰った俺はすぐに着替えを始めることにした。
「あの社長だ。きっといい店に連れて言ってくれるだろうから、それなりのドレスコードみたいなのがいるかもしれない」
そう考え口に出していた言葉を飲み込み、クローゼットに掛けられたジャケットのセットアップを手に取って着てみることに。
少しばかり似合っていない。なにせそんなに着る機会がないので見慣れていないからだ。毎日着ていれば、見慣れて似合っているように見える、はず。
しかしまあこういうジャケットコーデをする日が来るなんてなぁ……思いもしなかった。
……ふと、我に返る。
なんであの人は俺なんかにここまでしてくれるんだ? ハンカチ渡しただけだし、そこまでする義理はないはずなんだけどなぁ……。俺、気付かぬうちに菊沢花を助けたことがあったりして?
——んなわけないか。
まあご飯の時に聞いてみようなんて考えている間に着替えが終わり、ちょうどいいタイミングでメールが届く。
『出てきて、迎えに来た』
んあ? 迎えに?
窓の外を見ると、黒いセダンが一台停まっており、外に一人の美人が立っていて俺に気付いて手を振ってきた。
俺は慌てて外に出て、彼女の車へと向かう。
「ちょっと迎えに来るなら言ってくださいよ。俺がなにも準備して無かったら——」
『君ならもう準備してると思って』
ここで一つ気付く。なぜ俺がすぐ出てくると思ったんだ? なんで俺が準備してると思ったんだ?
「待ってください。失礼なことを行ってもいいですか? ちょっと前々から気になってですけたんど、もしかして俺の家に盗聴器とか隠しカメラとか仕掛けてます? 犯罪ですよ?」
「ちょっと本当に失礼だ。私がそんな事するように見えるの? あなたには」
ええ、見えますとも。がっちりばっこり見えてます。
「私はただ浮かれてたからすぐ出てくると思っただけ。迎えに来たのも電話ですごいうれしそうだったし、車の運転もしてほしかったからですっ!」
むっすー。
と、リスのように頬を膨らました。
「冗談ですよ。そんな怒らないでください」
「怒るでしょ」
「だって探偵雇うくらいにはちょっと狂ってるじゃないですか。俺の事をあの1件で調べようなんて思わないですよ」
「まあ、それは、そうね、うん」
なんだ歯切れが悪いな。
「とりあえず行きましょ。俺が運転すればいいんですね?」
「はい、お願いしますね」
鍵を預かり、助手席へ移動する。
「運転するんだよ?」
「分かってますって。はい、どうぞ」
助手席のドアを開け、彼女を誘導する。
「あら、素敵なお世話係さん。これからもよろしくね」
「もちろんです。閉めますよ」
バタンと、扉を閉めて運転席へと回り込み座る。
「さて、どこへ向かえばいいですか?」
「えーっと、ナビに入れてある」
「了解しました」
えーっとどれどれ……ん? これって割とすぐ近くのたまに俺も行く……やつですねぇ。
「これって……」
「そうよ、焼肉屋さん。私はここのお肉が好きなの!」
庶民的な感覚を忘れてなくてよろし!
「ではいっきまーす!」
「その空元気はなによ」
聞かないでくれ。俺が悪かった。
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