(仮)トキ家の日常 1
@miyano0523
第1話 こんな家庭です。
トキ家の朝は早い。
それは父さんの年齢とリンクし、いつの間にか必要もなく朝の4時になった。
だが、誰もそのことを父さんに言えない。
それがトキ家である。
父さんの朝はまず庭に出て、草花に話しかけるところから始まる。
「おはよう。今朝はまだ寒いな。」
「おはよう。お、小さな芽が出てるじゃないか。」
「おはよう。君は今日もべっぴんさんだな。」
父さんのコミュニケーションは庭にある全ての草花に注がれる、実にほほえましい日課のはずだった。
もしこれが、ごくありふれたボリュームで行われるのならば、きっと朝のちょっとした日課として、父さんの個人的な趣味として、家人も微笑ましく大いに愛すべき一コマとして語り草になっただろう。
しかし、父さんの声は大きかった。
それはもう大きく、ボリュームを絞る、という機能がない。
あったとしても、ものの数十秒で消えてしまう。
お蔭で朝だろうと電車の中だろうと葬式だろうと、ところ構わずよく聞こえる。
よく通るいい声だ、と褒めることができるのは何も知らない他人ばかりである。
父さんはこうして今朝も気持ちよく草花へ愛を注いだ後、そのまま散歩に出かけていった。
母さんはその頃合いを見計らって布団から出る。
母さんも声をかけるが、その対象は家庭の中にある道具類である。
「おはよう、洗面台さん。使わせてちょうだいね。」
「おはよう、鏡さん。あら、このきれいなご婦人はどなた?
え?わたし?やだぁ、もう。上手なんだから。」
このように朝からかしましいこと、さすが父さんのパートナーである。
こうしてご機嫌になったところで母さんは朝の時間を楽しむ。
家の窓という窓を全部開け放つ。
寒い冬でも、暑い夏でもお構いなしに、それはもう一気にガバっと開けていく。
家中に朝の清々しい空気が満ちた頃、一家の子どもたちが起き始める。
エミリは今年29歳になった。
「もう若くない」がここのところのマイ・フレーズだ。
エミリはこの段階ではまだ起きない。というよりも意識がない。
エミリは自称ロング・スリーパーであり、それは生まれ持った低血圧のせいだ、というが家族にしても、それを否定も肯定もできないでいる。
それがトキ家である。
隣の部屋で姉が気持ちよく眠る中、弟のトムは静かに起き上がる。
隣室の物音が唯一静かな朝の時間。
それをトムは心から愛してやまない。
父や母のあんな大声にもビクともしない姉の感性を、半ば呆れ、半ば感心しながら趣味のプラモデル作りに勤しむひと時はなかなか味がある。
トムにとっての朝は、両親の愛溢れる無駄に大きな声と共にやってくるが、そのことを疎ましく思う程度には反抗期を迎えていた。年末には高校入試もあるので、そろそろ本腰を入れないとヤバいとは思っている。
しかし一方で、この平和な朝の日常に感謝もしていた。
トムという呼び名について、自ら提案した日のことはよく覚えている。
幼稚園から帰ったある冬の日、両親がソワソワしながら見始めたのがあの大人気映画「トップ・ガン」だった。
トムはそのころ家族からも幼稚園でも「ショウちゃん」と呼ばれていた。
戸籍上の名前がショウタであり、それは自然な呼び名といって差し支えない。
そんな幼かった彼は、映画の中でクルクルと回る戦闘機、その戦闘機に乗ってかっこうよく飛び回る人に一瞬で恋に落ちた。
そして父さんに「あれは誰?」と尋ねたところ、「トム・クルーズだよ」といわれたのだ。
その日、トキ家に「トム」が誕生した。
この呼び名について、家族は特に誰も反対しなかった。
なにせかわいい幼稚園児の末っ子ちゃんである。
なんでもかんでも「はいはい」で通ってしまう。
きれいな一重に決して高いとは言えない鼻、のっぺりとしたどこからどう見ても「純和風」な彼を、家族のみんなが「トム」と呼ぶ。
すると周りもなんとなくそのように呼んでしまう不思議。
こうしてトムは幼稚園でも、小学校でも、中学校に入っても、いつの間にか「トム」と呼ばれるようになっていた。
自分のこうしたことが人にどういう印象を与えるのかについて、中学校に上がった瞬間にわかったことがある。
見覚えのない、しかし明らかに素行のよろしくない上級生に目をつけられ、行く先々でどうでもいいような幼稚なやり方のイジメに合うようになった。
本当にどうでもいい方法だったので、ここでは割愛する。
トムは呼び名以外はいたって物静かで落ち着いた性質の至って地味な、そして比較的物事について見る目の確かな子どもだった。
だから、上級生の対応についてトムは”彼らのしたいようにさせればいい”と思っていた。
何よりクラスメイトや同学年の中でトムは意外と信頼の厚い生徒だったから、上級生たちの行為にはそれ以上もそれ以下も影響がなかったのは幸いだった。
しかし、それを知った担任の先生や家族はそうはいかなかったのである。
彼らは彼らの認識によって、もちろん「大騒ぎしよう」とした。
それを阻止する方がよほど時間をとられた、とトムは思っている。
黙って見守ってくれれば、1年とたたずに卒業していく彼らを静かに追い出すことができたのに、と。
大人の「騒ぎたい精神」は、時に子どもを無闇に疲弊させる。
だが、それを”真っ向から指摘する”ことはあまりスマートなやり方ではない。
そのこともトムはよくわかっていた。
「誰にでも、”花を持たせてやる”というのが、かっこうのいい大人のやり方だ」
そう言っていたのは小学校6年生の時の担任 山下先生だった。
「誰だって間違っていることは自分でわかってるもんだ」
そういう時に正面きって「あたな、間違ってますよね?」とやられることくらい不快なことはない、と山下先生は言った。
「じゃあ、どうすればいいんですか?」
絵にかいたようなマジメちゃんの岡村さんが手を上げて質問した。
「ん~。どうすればいいかなぁ。」
先生はほんの一瞬、明らかに岡村さんを憐れむような眼をした。
多分だが、こういう場面でそういう対応をすることが、既に「間違ってますよね?」と指摘してしまう人と同質なのでは?とトムは思ったが、それは言わずにおいた。
トムはその程度にはマナーをわきまえていた。
「まぁ、俺だったらだけども。」
先生は黒板に大きな字を書いた。
「”悪い”とわかっていて」
先生がこちらを向く。
「それでも”やってしまう”ということについて、 ”でも、やってはいけない”と
”頭でわかっているだけ”では、本当にわかっていることにはならんのだな。」
割れた花瓶の欠片を手に取り、先生はしげしげと見つめる。
「割ってしまったことと、自ら割ったこととは別問題だと、知っているんだ。」
花瓶は辺り一面、教室の隅にまで散らばっていた。
「たぶんだが、これは”自ら”割ったものだ。」
珍しく先生は厳しい目をしていた。
なんとなく緊張してしまう。
「だが、”悪い”ということを味わう必要がある。そういう瞬間が確かにある。」
その日、トムたちがお説教されていたのは教室の花瓶が割れたからだった。
昼休み、誰かが割ってしまったことに由来するのだが、たまたま多くの生徒が校庭やら図書室やらに出ていたため、一体だれがやったのか、皆目見当もつかない。
最初にそれを見つけたマジメちゃんの岡村さんは、大声で犯人を糾弾した後なかば嬉々として職員室へ駆けて行った。
「誰だって自分のことは”キレイだ”と思いたいし、人からもそう見られないものなんだよ。そんなことは普通なことだ。だから、自分がマズイことしたって時、つい”言いそびれ”たり、嘘をついて誤魔化したりしたくなるんだろうな、きっと。」
それは大人も子どもも全く同じだと先生は言った。
だが、キレイというのは果たしてそんなに重要なことだろうか?と先生は言った。
「キレイ、というのが”一度も汚れたことのない状態”だけを指すのだとしたら、そんな窮屈な世界には俺は一秒だって生きていられないけどね。」
先生はそういってニヤっと笑った。
その笑い方はなんだかくたびれて、それなのに妙にかっこうよくトムには見えた。
「誰にでも”花を持たせてやる”のは、大事なことなんだ」
「花を持たせるってなに?」
誰かが問うと
「そうだなぁ。」
ちょっと思案顔をして黒板にへたくそな人らしき絵を描いた。
「例えば、この人がお金が無くて困ってたとするだろ?しかもお腹が空いて仕方がない。」
「どれくらい”空いていたか”というと、水泳の授業をした後よりも、もっとお腹が空いていたんだ。」
それはしんどい、とトムは思った。
トムは大食いではない。
しかし、水泳の授業後となれば話は別だ。
いつもならお替わりなんてしない給食のごはんをお替わりしてしまう。
他の生徒も同様らしく、水泳の後は誰もがいつもよりたくさんお腹が減るため、よほどのメニューでもない限り、食べ残しは一切出ないのが恒例だった。
食べ盛りに水泳をさせて”給食だけ”は、本当のところかなりキツい。
話を戻して、その人は自分がお金のないことをよく知っている。
知っていて、通りすがりの定食屋の前を通ったとたん、フラっとお店に入ってしまった。
これは普通に考えると”やらないこと”だが、それでもお腹が空いていたその人は、店に広がる食べ物の匂いにつられて、つい丼を注文して食べてしまった。
「これはどうだ?」
みんな反応に困っていた。
気持ちは痛いほどわかるが、やったらダメだろうと思っている。
先生は再び黒板に何か書き始めた。
今度はへたくそな”おじいさんの絵”だった。
”おじいさん”と思ったのはヒゲらしきものがモシャモシャと書かれていたからで、それが無かったら壊滅的にへたくそな”棒人間”でしかない。
「ところでだ。この定食屋の主人は厨房からお客さんを見ながら、その人の様子に気づいていた。」
「その人の身なりや、うつむき加減だったのがガツガツと一心不乱に食べる様子なんかを見て、何か気づいたんだな。」
「そこでだ。お前ならどうする?」
先生は何人かの生徒を再び指して、応えさせた。
「警察に電話する」という者。「何かあったのか、尋ねる」という者、色々な答えが出た。
誰も何も言わなくなると、先生は話の続きを始めた。
「その主人はフラっと厨房を出て、その人のテーブルまで寄っていった。
そしてスッとしゃがみこんだ。」
「そして、そのテーブルの人にこう言ったんだ。”これ、落ちてましたよ。”」
そういって主人はテーブルに千円札を置いた。
「その人は驚いた。驚いて、何も言えなかった。」
主人はそのまま店の出入り口の暖簾を外して、また戻ってきた。
「さぁ。みんなはどう思う?」
少しの間静まり返った教室。
控え目に手を上げる者が出てきた。
先生が差すと
「でもそれは自分のお金じゃないから、受け取ったらダメだと思う。」
「わたしも。正直に話して謝るべきだと思う。」
似たような意見が占める中、先生は黙って次々に生徒を当てていった。
先生は黒板をじっと見ていた。
誰も何も言わない。
他の教室の笑い声が、かすかに聞こえた。
「”正解”と”間違い”しかない世界なら、みんなの言ったとおりだと思う。」
「でも。”生きていく”っていうのは、大半の時間がこういう曖昧な選択や経験なんじゃないかな。」
正しいと間違いの間にある、モヤっとした、でも不快とは違うもの。
パキッとは割り切れない中に漂うもの。
「俺はこの話を最初に聞いた時、驚いた。最初はみんなと同じように感じた。でも、その人は結局、その千円札でお金を払って店を出たんだ。」
人にもらったお金で支払いをしたその人は、どういう気持ちで出て行ったんだろう。
「罪悪感か?それとも、何にも考えずラッキーとほくそえんだか?」
「俺はどちらもアリだと思うが、それだけじゃないとも思った。」
「ということで、これはみんなに宿題です。自分がこの人だったら?でもいいし、自分の感想でもいい、明日までに作文にしてもってきてください。」
その日、結局のところ花瓶についてはそれまでとなった。
岡村さんは腑に落ちない様子でひとり不機嫌に教室を出て行ったが、他の者はなんとなく静まり返っていたのが印象的だった。
この時の宿題を、トムはいまだにずっと取ってある。
自分の書いた作文の中身のためではなく、先生のコメントを見直すために。
赤ペンで帰ってきた作文にはこう書いてあった。
「”優しさ”というのは、たくさんの形があると先生は思います。君の思う”優しさ”と他の人が思う”優しさ”は、時には”正反対に見える”こともあるでしょう。それがこの世界のおもしろいところです。だから、もし困ったときには”正解はたくさんある”と思ってください。そして、君を愛する人の正解が君の正解とは違うこともあると、受け入れてみてください。それはそれでいいじゃん、と思ってみてください。それがかっこういい大人になる秘訣です。」
トムはこの時のことを今でも時々思い出す。
そして、自分なりの”やさしさ”で人と付き合える大人がいい、と思うようになった。
人に押し付けられるのではなく、人に押し付けるのでもなく、たくさんある正解でいいじゃんと思って生きようと決めたのだ。
それはその後のトムの”人を見る目”にも大きく影響しているのだが、このことを知っている人は今のところ誰もいない。
ところで、後日花瓶を割ったのは”実はよそのクラスの生徒だったらしい”と噂になった。
越してきたばかりの転校生で、どうも気持ちが不安定だったので、先生もクラスメイトもどう接していいかわからず、結果として”村八分のような状態”だったらしいのだ。
ただ、誰かがそのシーンをハッキリ目撃した、ということではなく、違うクラスに入っていくところを見た、とか、大きな音がしてそっちを見たらその転校生だった、というくらいの話で、真相は結局わからずじまいだったが、トムは気にならなかった。
その転校生はいつのまにか不登校になり、そしていつの間にかいなくなっていたからだ。
人生には記憶からこぼれていくものの方が実は多い。
トムのイジメにしても、きっと大半の者にとっては忘れ去られることだろうし、当事者だった上級生さえも、今や自分の新しい生活に追われて、そんなことは思い出しもしないかもしれない。
トムにしたって、イジメにあったことよりも、そのことで大人が騒ごうとしたことにうんざりした、ということのほうがよほどインパクトとしては大きかったくらいだ。
目下、トムにとって重要なことは、自分の呼び名でも、かつてイジメにあったことでも、ましてや家族の朝のそれぞれのルーチンでもなく、朝のこの神聖かつ貴重な時間をいかに確保しながら受験に挑むべきか。
だが、そのことについて有益なアドバイスのできる人は、少なくとも家族にはいそうにない、ということだけはわかっている。
トキ家の朝は今日も平穏である。
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