第3話

 ミネルバ先輩はすごい人だ。

 一緒に歩いていると、通り過ぎる瞬間、よく偉い人に話しかけられる。


『ミネルバ君じゃないか。どうだね、最近の調子は』


『……いやー、なかなか上手くいかない日が続いてますね』


 この日もいかにもな格好をした年配の魔法学者にミネルバ先輩は話しかけられていた。

 僕はそれに対してただ、へぇー、こんな人とも知り合いなのか、なんてことをふわっと思っていた。


『そうかね。まあ、若い時に成功した人間は、そこからまた何か生み出せるかどうかで人としての価値が決まるからね。頑張りたまえ』


 なんか嫌な笑い方に妙に引っかかる言い回し。

 わざと嫌味を含ませていそうな話し方だ。


『そうかもしれませんね。頑張ります』


 その人にミネルバ先輩はそれだけ言うと、そそくさと背を向け、また歩き出した。

 ボーッと二人の会話を聞いていた僕は、慌てて彼女の背中を追う。


『あの方、こんな場所に来ることもあるんですね。雑誌かなんかでしか見たことない人でした』


『……あー、最悪な気分だよ。ああいう人、ねえ?』


『……言いたいこと、分かりますよ。なんか嫌な感じでしたね』


 負の感情をこんな表面に出すなんて先輩らしくない。

 ――この人はいつもこういう人達を相手しているのだろうか。


『ああいう人ってつまんないですよね。肩書きの割には魔法薬学の面白さをちゃんと分かってないんですよ、きっと。せめて本音で話せばいいのに。遠回しに言われるのはあんまり好きじゃないです』


 遠回しな発言――。

 でも、本音ばかりで話したらきっとそれはそれでつまらないと思いますよ、先輩。


『以前もそんなこと言ってましたね』


『賞とかもその面白さをわかってない奴が勝手に与えんなって感じ』


 呆れからか怒りを含め何も感情のこもっていないトーンで淡々と彼女は言う。


 ミネルバさんは凄い人だ。

 でも、嫌いな人はいるし、本当は面倒くさがりな人だ。

 メイクは必要ない日にはしないし、面倒な作業はいつも眠そうにしている。

 研究室も僕が居なかったらすぐ物が散らかるだろう。


 そんな、人だ。


 そして、飽き性でもある。

 今日もまたこうして研究に飽きたとか言いながら、僕を連れ回していた。


『そうそう、後輩くん。これ知ってます?』


 突然、視界が何かに覆われた。先輩が考え事をしていた僕の目の前にとある瓶を近づけてきた。

 近すぎてピントがなかなか合わない。


『いわゆる魔法の粉ですか。まじないの一種ですね。どうしてそれを?』


 瓶に入った粉。それは確かその効果からかなり高値で取引されるらしい。

 らしい、というのはそれほど貴重品だということだ。庶民の僕は、本物を生で見たことさえなかった。


『フフン。今日はこれで遊ぼうと思ってね』


 もう一度言う。庶民の僕は生で見たことすらなかったほどの貴重品だ。


『富豪ですか』


『後輩君、経験は金で買えないのだよ』

 

『その言葉、あんまり今の状況に合ってない気がしますけど』


 いつのまにか、足は研究室に辿り着いていた。

 自分の席の机に僕は手に持った書類をどさっと乗せる。それから一息ついて、彼女の方を振り返った。


 その時、視界に入った先輩はもう瓶の蓋を片手に持っていた。既に封が空いている瓶がもう片方の手に。

 瓶を蓋を持った方の手のひらに何振りかして、先輩は粉を手で包む。


 そして、それを雑に体全体にかかるよう頭からかけた。


『いや先輩……待って!』


『うわ、浮いてる〜』


 随分とご機嫌そうだ。


 彼女の足が地面から離れ、体全体が少しずつゆっくりと浮上していく。

 僕はその姿を見て、急いで駆け寄った。僕は彼女の手首を強く掴む。


『後輩君、やるねぇ』


『先輩、僕が掴まなかったらどうするつもりだったんですか……』


『後輩君なら掴むと思ってました。私、飛んでっちゃうので。離さないで、くださいね』


 先輩はかなり雑に粉を振りかけた。本当は正確に計る必要があるんだ。

 そうしないと、どのくらいの時間浮けるのかわからないから。


 そこまで焦る必要がないように思えるが、突然天井から落ちてきて無事に着地できる先輩の姿が僕には想像できない。


『すごい、これ楽しいですね』


『……解けるまでずっとこうしてないといけませんか?』


 先輩はこっちを気遣うなんて気は始めからないみたいで、浮遊するその感覚を堪能していた。

 ご機嫌そうで何よりだ。


 彼女は風船のよう。手を離したら飛んでいってしまうそんな存在。

 僕は掴んだ手首と自分の手の境目をじっと見つめる。


 今、この手を離したらどうなるだろうかなんて、想像しながら。


 先輩はいつも目を離せない人だった。

 何をしでかすか分からない人だった。


 ただ、それが楽しくもあった。


 僕は本当に長い時間、彼女と過ごした。

 大体は振り回されていたけど、その時間が、僕は好きだったんだ。




 

 だけど、先輩は死んだ。


 

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