カコン、カコン
紫鳥コウ
カコン、カコン
カコンという音のあとに、コケコッコーという鳴き声。山の稜線が明るくなって、曙光が差し込んできます。朝がきたのです。コケコッコーは
夫の書斎に、手紙を一束渡しに行くと、遼一さんからいただいた油絵が、さっそく飾ってありました。明け方の風景が描かれています。じっと見ていると、カコンという音が、どこからか響いてきたのです。
「
「鹿威し?」
「いえ、なんでもないのですよ。こちらの話ですから……」
あの風景画から、眼の覚めるように響いてきたのは、鹿威しの音だったのではないかと思いました。カコンと音がするものは、鹿威し以外にあったでしょうか。ずっと考えていると、きいんと頭が痛くなってきます。
「ヨシは、カコンっていう音を、聞いたことがある?」
「カコン……どこかで聞いたことがあるような気がしないこともないですが、それが、なんだったかと言われますと……」
そうでしょう。カコンと音を鳴らすものは、鹿威しよりほかに、ありそうもないのです。しかしあの油絵には、鹿威しは描かれていません。鶏小屋の奥に木造の母屋があり、その向こうに双子の山がどっしりと構えていて、そこから朝陽が差し込んでいます。
遼一さんの筆は、日本庭園を作ったわけではありません。石灯籠も飛び石もなければ、苔むした匂いも、どこからも漂ってきませんから。
* * *
遼一さんの画展に招待されたのは、今年もあと少しで終わろうとするころでした。半年ものあいだ、あの「カコン」に悩まされ続けていただけに、遼一さんにお目にかかれたことで、この煩悶の日々に終止符を打つことができるかと期待していたのですが、遼一さんは、声を立ててお笑いになって、こう
「鹿威しのような風流なものに、僕は興味なんてありませんよ。見て下さい。ここにある絵はぜんぶ、僕たちに身近なものしかありませんから」
そうなのです。
だとしたら、あのカコンという音は、一体なんなのでしょう。わたしが正気を失しているわけではなさそうなのです。たしかに、あの絵を見るたびに、カコンという音が響いてくるのですから。
「きっと、疲れているのだろう。なんなら、一度、医者に診てもらうといい」
夫はまともに取り合おうとしてくれません。かといって、お医者さんに解決できる問題だとも思えません。
もしかしたら、あのカコンという音は、記憶の彼方から、響いてきているのではないでしょうか。一葉の家族写真のなかに、
* * *
風邪を引いてしまいました。熱が少しだけあるようだけれど、横になるほどでもない……と思っていたのですが、右眼が腫れてくるようなヘンな感覚があって、夜になると、
こんな遅くなのに遠藤さんに来てもらうと、ちょっと悪い風邪みたいで、薬をいただきましたが、オエッとしてしまって、口にすることも難しいのです。
どこで風邪をもらってきたのでしょう。まぶたが熱をもって、眼をつむると眼球が重たくなってきます。そして、寝られないまま、明け方になりました。
すると、カコンという音が響いてきました。
「康志さん……」
不思議と、死んでしまった
もちろん、鹿威しなんてありませんでした。でもあの庭に一足踏み込むと、むかしは鯉が
どんどん陽がのぼってまいります……カコン、カコン。
〈了〉
カコン、カコン 紫鳥コウ @Smilitary
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