第23話 どうか、お幸せに
「こんなところで何をしているのかな?」
アダムは自分の胸の中で震えている梓を抱き締めながら、テラスで腰の剣に手を掛けていた進之介に冷ややかな視線を浴びせた。
進之介は動けなかった。
何もアダムの視線に恐怖したわけではない。
アダムと梓はお互いが隙間もないくらい密着していた。これではアダムに剣を向けた場合、梓も一緒に斬りかねない。それだけは避けなければならない。
進之介が動きたくても動けない状況の中、悲痛な表情でアダムに身体を預けていた梓がアダムに進言した。
「アダムさま、あの者は賊でございます! このままここにいればアダムさまにも危害を加えかねません。どうかお逃げください!」
進之介は自分の耳を疑った。
あろうことか梓は、進之介に対して〝賊〟と言い放ったのだ。
梓の言葉を身近で聞いたアダムは、梓を自分の背中に回して庇うような姿勢になった。
「どういうことか説明してもらおうか、たしか君の名前はシンといったね」
いくら寛容な性格をしていたアダムでも、自分の大切な伴侶に危害を加えようとする人間には寛大になれない。
たとえそれが自分の気に入った相手でもである。
「アズサ、彼は君の知り合いなのかい」
アダムの確信をついた言葉に、震えていた梓がこくりと頷いた。
「まさか……」
アダムは梓が頷くのを確認すると、一歩だけ前に踏み出した。そのままアダムはテラスで立ち尽くす進之介の双眸を見つめ返す。
「君はまさか〈アルス・マグナ〉を通ってこの世界に来たヘルメスの人間なのか?」
アダムの問いかけに進之介は何も答えなかった。ここまで来て敵の言葉に耳を貸すほど進之介は寛容な性格ではない。
進之介は腰間に差していた剣をゆっくりと鞘から抜き放った。
美しい反りを描く直刃の刀身の〈神威〉は、眩いばかりに白銀に輝いている。
その神秘的な輝きを放つ〈神威〉に、アダムは一瞬だけ心を奪われた。
アトランティス帝国ばかりか、シャーセイッド大陸全域を探してもこのような神秘的な剣を造れる刀工は存在しないだろう。
まるで持ち主である進之介の意識と呼応するように、剣自体が光り輝いている印象が見て取れた。
「梓さま……その男から離れてくだされ」
進之介は高ぶる心臓の鼓動を抑えながらそう呟くと、テラスから部屋の中へと足を踏み入れた。
もはや進之介には梓の姿しか映っていなかった。
その進之介が取った行為自体が、梓とアダムにとっては〝賊〟以外の何物でもないことも本人は認識せずにである。
それでもアダムは至極冷静に物事を捉えていた。
「残念だがここは私たちの寝室でね。君には遠慮してもらうよ」
言うなりアダムは、右手の中指と親指でパチンと音を鳴らした。
瞬間――アダム、梓、進之介の三人しかいなかったはずの空間に、複数の人間の気配が出現した。
人数は5人。突如現れた目元しか見えない黒衣を纏った異形の集団は、呆然と立ち尽くす進之介に対して殺気を込めた視線を向けていた。
おそらく、アダムを影で護衛するための裏の兵士に間違いはなかった。
並みの兵士には出せない淡々とした冷たい殺気は、戦場で勇敢に戦う人間のそれではなかった。
確実に狙った標的を主の命令一つで戦闘不能にする。
そのためだけに鍛えられた雰囲気を影たちは放っていた。
影たちにより全身に隙間もないほど殺気を浴びせられた進之介は、この時ようやく我に返った。虚ろであった表情が徐々に正気を取り戻していく。
「梓さま……」
影たちの殺気により正気を取り戻した進之介は、梓を直視しながら疑問を投げかけた。
なぜ、と。
梓は艶かしい唇を噛み締めると、アダムの前に立ちはだかり、進之介に話し始めた。
自分が今まで密かに身の内に秘めていたすべてを。
「進之介……私はね、幼いころから父が誰よりも憎かった。口を開けばお前はまともではないと罵り、男児を生まなかった母を容赦なく痛めつけた父に。けれど、憎かったのは何も父だけではなかったわ」
ここで言葉を区切った梓だったが、すぐに息を吸い込み話の続きをする。
「内弟子衆も嫌いだった! 父の命令なくば何もできない木偶の集団の貴方たちが心底嫌いだったわ! もちろん、あなたもよ……進之介」
進之介は梓の言葉を聞くなり、自分の心臓を杭で打たれたような錯覚に見舞われた。
梓の告白はなおも続いている。
「だけど私も武家の娘。しきたりには従わなければと、一度はあなたとの婚姻を承諾しました。でも、そんな私のすべての苦しみを解放してくれた人と出会えた」
梓はアダムの左腕を両手できつく抱きしめた。
「私はここにおられるアダムさまを心の底からお慕いしております。そして進之介、それは決してあなたには理解できないことです」
確かに進之介には理解できなかった。進之介は何度も自分自身に問い続ける。
梓はこの世界で苦しい日々を過ごしていたのではないのか。
誰かが助けに来てくれるのを待ちわびていたのではないのか。
そしてそれは自分のことではなかったのか。
進之介の全身に冷たい汗が滲んだ時、梓は決定的な一言を放った。
「私のお腹の中にはアダムさまの子が宿っています」
「!」
梓の一言を耳にするなり、進之介の視界は急激に狭まった。
胸が急激に締め付けられるような圧迫感に襲われ、全身が軟体動物のように脱力していく。
そのせいで、右手に握られていた〈神威〉の切っ先が床に突き当たった。
アダムはここが好機とばかりに梓を下がらせると、影の集団に指をもう一度指を鳴らして合図を送った。
一度目の指鳴らしは相手の出方を窺う合図。
そして、二度目の指鳴らしは相手を捕獲せよという合図を意味していた。
影の集団はアダムの合図でお互い顔も見ずに一斉に動いた。
確実に相手を捕獲するために正面から2人、左右から1人ずつ、そして、空中に跳んだ1人が進之介に文字通り影のように襲いかかった。
進之介の右手には抜き身の真剣――〈神威〉が握られていたが、肝心の進之介は半ば放心状態であった。
だからこそアダムは影たちに進之介の捕獲を命じたのである。
アダムは入隊試験の折り、進之介の実力をその目で見ている。
万が一、進之介が万全の状態であった場合では影たちでも不覚を取りかねない。
アダムは進之介を捕獲しても殺すつもりはなかった。
進之介ほどの実力を兼ね備えた剣士をむざむざと失うには惜しいし、何より進之介が梓と同じ異世界からどうやってこちらの世界に来ることが出来たのかも個人的に知りたかったからだ。
アダムが色々と思考している間にも、5つの闇が進之介を捕獲すべく躊躇なく間合いに侵入していく。
そして次の瞬間、部屋の中に5つの激しい打撃音が響いた。
アダムと梓はお互い示し合わせたように目を丸くさせた。
進之介を捕獲しようと手を伸ばしたはずの影たちが、それぞれピクリとも動かずに床にだらしなく倒れていたのだ。
アダムは影たちの身体の部位をそれぞれ遠目で確認することで、目の前で起こったことがようやく理解できた。
進之介は刃が付いていない部分で影たちの身体を強打したのである。
しかも、相手を殺さぬように急所を避けて正確に打ち込まれていた。
進之介はたしかに放心状態であった。それでも影たちの猛撃を退けられたのは、神威一刀流に入門してから一日たりとも欠かさなかった修練の成せる技であった。
進之介の身体は、無断で間合いに侵入する賊の襲来を許さなかったのである。
そして回避不可能なはずであった包囲網を一瞬で切り抜けた進之介の力量に、アダムは改めて感嘆の吐息を漏らし、そしてこう思った。
――この剣士が欲しい。
アダムが進之介の力量に改めて惚れ込んでいると、
「進之介……」
アダムの後ろにいた梓が呟いた。アダムは進之介の顔に注目した。
進之介の目元からは引き締まった頬を伝う一粒の涙が見えた。
アダムと梓は、なぜ、進之介が涙を流したのかがわからなかった。
嬉しさ、哀しさ、痛さ、どの感情から流れ出た涙なのかはわからなかったが、今の進之介からは敵意というものがまったく感じられなかった。
進之介には〝視〟えてしまっていた。
アダムと梓を取り巻いている自分しか〝視〟えない感情の渦。淀みなく流れている気の波動は相手を庇うように優しく、それでいて力強く2人の身体に渦巻いていた。
それだけで進之介にはすべてがわかった。
2人の気持ちは本物なのだと。自分が付け入る隙などは最初からなかったのだと。
そう考えた途端、進之介は自分の身体が羽のように軽くなったような気がした。
両肩に圧し掛かっていた不可解な重圧から開放されたような気分であった。
(そうか……俺は最初から)
進之介は2人に背を向けると、部屋からテラスへと移動した。
テラスに出るなり、進之介は手をかざして宙を見上げた。
夜空に浮かぶ綺麗に半分に欠けた月は、まるで半身を失った進之介の心の形のようであった。
進之介は月を眺め終えると、懐から何かを取り出した。
それを自分の胸元ほどの高さの塀の上に静かに置くと、再び部屋の中にいる梓に視線を向けた。
進之介は儚げな、しかし精一杯の笑みを浮かべながら囁いた。
「しんの……」
梓が進之介に声をかけようとした時には、すでに進之介は塀の上に足を掛けてテラスから姿を消していた。
梓は小走りにテラスへと躍り出た。テラスへと出た梓は辺りを見回したが、進之介の姿はすでに影も形もなかった。
その中で、梓は進之介が何かを置いた塀の上を確認した。
梓が塀の上で見つけた細長い代物は、桃色の色彩をした桜の形を模した1本の簪であった。
その簪に梓は見覚えがあった。
それは、向こうの世界で肌身離さず差していた自分のお気に入りの簪であった。
梓は進之介が消えたと思われる下層のほうへと視線を落とした。
だが、見えるのは幾つもの円形状に繋がっている尖塔の屋根の部分だけであった。
梓は暗闇が広がる下層を眺めながら、進之介が消える直前に口にした言葉を思い出した。
――どうか、お幸せに
はっきりと聞こえたわけではなかったが、確かに進之介は言ったのだと思う。
梓は進之介が残した簪を優しく両手で握り締めた。
簪を握る梓の上空では、すべてを見届けていた半月に暗色の雲が翳り始めていた。
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