第22話   進之介と梓

 どこからか歌が聞こえてくる。


 柔らかい声の旋律に乗って紡がれる言葉の1つ1つが、これから生まれてくる生命の誕生を祝うかのように部屋の中にゆっくりと流れていた。


 それは子守唄であった。


 アトランティス城内の最上階に位置する一室において、1人の少女が豪華なベッドに腰掛けながら唄っていた。


 広々とした部屋の中は煌びやかな家具や目立った装飾品などはなく、また一切の灯火がなかったが、だからといって闇深いわけでもなかった。


 ここは城の中でも天を身近に感じられる部屋の一つである。


 月が天空に浮かんでいる夜にテラスの窓を開けていると、宝石が散りばめられたような星々の輝きと一緒に、青白い月の燐光が部屋の中を明るく包んでくれる。


 少女はその光に包まれることが好きだった。


 神々しい月の光を全身に浴びていると、不思議にこの世界と一体化するような感覚になるのだ。


 少女は自分のお腹を優しく擦った。


 まだ目立つほど膨らんではいないが、この腹の中にもう1人の人間が存在している。


「私のかわいいぼうや」


 まだ子供こそ生まれていないが、やはり母親になるのが嬉しいのだろう。


 少女はこのところ毎晩のように子守唄を唄っていた。


 その度に思い出す。少女がこの世界に来てからもう1年以上が経過していた。


 少女はこの国の人間ではなかった。それどころか、この世界の人間ですらない。


 元いた世界では、少女は武家の娘であった。


 江戸は神田小伝馬町に居を構えていた、神威一刀流剣術指南道場。


 それが少女の生家の名前であると同時に、幼少の頃から憎んでも憎みきれない父親の住む忌むべき場所でもあった。


 大多数の門下生を従える剣術道場の当主であった父親は、跡取りが生まれなかったことに日頃から業を煮やしていた人間であった。


 ――こやつさえまともに生まれておったら


 物心ついた頃より延々と聞かされていた父の呪い言葉に、少女はいつしか病弱な身体になってしまい、人目を避けるように床に伏せるようになった。


 そして少女が17歳の時である。


 少女は父親に呼び出されると、自分の婚姻が決まったことを素っ気なく聞かされた。


 相手は2つ年上であった片桐進之介。内弟子衆の中では一番年が若く、才気溢れる青年としか認識していなかった人間である。


 少女は進之介との婚姻を聞かされるなり、父親に平伏してこれを受諾した。


 武家の婚姻は当人同士ではなく、当主がすべてを決める厳粛な儀式である。もとより、少女に異論を挟むことなどはできなかった。


 だからこそ、少女はその夜に一人で外出した。


 行き先などは決めていなかった。


 ただ、気づいたら少女は近所の溜池の場所にまでふらふらと足を運んでいた。


 池の水面に映る満月と自分の悲痛な顔を眺め、少女はしばし不安な時を過ごしていた。


 その時のことは今でも鮮明に覚えている。


 突如、溜池の一部が血のように赤く染まり、その中から現れたクラウディオスにこちらの世界へと連れさらわれたことを。


 少女はベッドからゆっくりと立ち上がると、テラスへと歩き出した。


 開けっ放しのテラスの窓からは、吹き込んでくる澄んだ夜風で薄い紗幕が揺れている。


 少女は腰まで届く流麗な黒髪をなびかせながら、テラスへと足を踏み入れた。


 眼下に広がるゼノポリスの街並みは、何度見ても朧げな印象しか沸いてこない。


 それも無理はなかった。


 少女は本来ならばこの世界には存在しない人間であり、下手をすれば1年前に死んでいたかもしれなかった。


 それも、アトランティス帝国の生命線とも呼べる超金属――オリハルコンの触媒となってである。


 しかし少女は死ぬことはなかった。


 それどころか、今ではアトランティス帝国の王妃という身分にまでなってここにいる。


 少女の目線は眼下に広がるゼノポリスの街並みから、煌々と天空に輝く月へと転じた。


 本音を言えば、この世界で死ぬことも悪くないと少女は思っていた。


 この世界に連れさらわれた早々幽閉された牢で、少女は現軍事科学研究所所長であるホムンにすべてを聞かされた。


 この世界は少女がいた世界とはまったく別の世界であるということ。


 これから少女は、オリハルコンと呼ばれる金属のための生贄にされるということ。


 すべての経緯を話していたホムンの横には、暗い表情で少女を見つめるアダムがいた。


 少女は話を聞き終えるや否や、ホムンとグラムの二人に向けて優しく微笑んだ。


 アダムとホムンは目を見開いて驚いた。


 少女が2人に向けた放った笑顔は、これから死ぬことを宣告された人間ができる表情ではなかったからだ。


 少女は懐に手を差し入れると、隠し持っていた護身用の懐剣を取り出した。少女はゆっくりと刃を鞘から抜いた。


 少女はすべてを受け入れる覚悟があった。


 だが、武家の娘として恥じるような死に方はできない。


 あれほど憎んでいた武家のしきたりに殉じようとしている自分に含み笑いを浮かべると、抜き放った短刀の切っ先を喉元へと向けた。


 今まで力仕事などしたこともなかった少女であったが、一尺にも満たない短刀の切っ先を自分の喉元へと突き刺す力くらいは持っている。


 少女は目を閉じると、両手でしっかりと逆手に握っている短刀に力を込めた。


 この瞬間、少女は死ぬ間際になると見えるという走馬燈の到来を待ちわびていたが――走馬燈は少女の前には訪れなかった。


 少女が再び両目を開けると、目の前には白糸のように一本一本が映えて見える前髪を垂らしながら、アダムが必死に何かを堪えている表情があった。


 呆けている少女の鼻腔には酸鼻たる血の匂いが香っていた。


 アダムは自害を試みた少女の短剣の刃を素手で摑んでいた。


 少女の鼻についた血の匂いは、アダムの繊細そうな指から流れていたものであった。


 アダムは少女の手から短刀を離させると、少女の手を包むように握った。


 そして「決めました」とアダムがポツリと漏らした言葉に、初めて少女はこの世界の言葉を理解できることに気がついた。


 アダムは真摯な眼差しでひとしきり少女を見つめると、信じられない言葉を発した。


 ――私の伴侶になってほしい


 その言葉の返事に少女が戸惑いを見せていると、アダムは自分でも気が早かったのだと思ったのか、まずは少女の名前を訊いてきた。


 少女はようやく我に返ると、艶かしい唇を震わせて自分の名前をアダムに告げた。


「梓さまッ!」


 突如、思い出から現実に引き戻された力強い言葉に、少女の身体がビクッと反応した。


 声が聞こえてきたテラスの奥へと少女が視線を向けると、そこには1人の青年が息を切らせながら立ち尽くしている姿があった。


 白シャツに黒ズボンという兵士の服装ではない格好をしており、左腰には見に覚えがある朱巻きの刀が差されていた。


 少女は大きく目を見開きながら、テラスの奥に立っている青年の名前を口にした。


「あなた……まさか、進之介」


 少女の視線の先にいた進之介は必死に警備の目を掻い潜り、円形の尖塔を伝いながら最上階に位置する寝室のテラスにまでやってきたのである。


「お会いしとうございました、梓さま」


 進之介はうっすらと額から汗を滲ませ、荒くなる呼吸を抑えながら少女――武峰梓に微笑みかけた。


 進之介の視線の先には月から放射されている青白い燐光と、テラスにまで届くゼノポリスの光彩により一段と映えて見える梓の姿があった。


 着物ではない純白の襦袢らしき異国の服に身を包まれ、男であれば誰であろうとも見惚れてしまう天女の如き美貌を醸し出している梓を前に、進之介はようやく自分の悲願が達成したことを肌で感じた。


 その背中にまで到達している流麗な長髪も、その一流の彫刻家でも造形が不可能なほどに整った顔立ちにも、そのふくよかな曲線を描いている身体つきにも、その艶かしいほどに色ついている朱唇の横にある黒子にも、すべて進之介の記憶が鮮明に覚えている梓の特徴のままであった。


 逆に梓は進之介に声をかけられた時から終始戸惑いの表情を浮かべていた。


「進之介……どうしてあなたがここに?」


 梓の声は明らかに裏返っていた。


 絶対にこの世界にいるはずのない人間がテラスの奥に存在していたのである。声が裏返るのは当然のことであった。


「それよりも」


 進之介は戸惑う梓にゆっくりと近づいていった。


「私と一緒にここから逃げましょう、梓さま」


 進之介の言葉に梓の表情が強張った。


 そして、本来いるはずのない進之介に対してなのか、または夜風に当たりすぎたのか、梓の身体が小刻みに震えだした。


 進之介はその間にも右手を差し伸べながら梓との距離を縮めていく。


 進之介と梓との距離が二間ほどに縮まると、進之介は1年振りに見る梓の顔が緊張していることに気がついた。


 進之介はこのとき、梓が今までどのような仕打ちを受けたのか心配になった。


 見知った人間に会っても緊張するなど、よほど酷い仕打ちを受けたに違いない。


 進之介はそう思ったからこそ、一刻も早くこの場所から梓を助け出さなくてはならないという使命感に駆られた。 


 煌々と輝く月明かりの中、進之介と梓の距離が一間にまで縮まると、声を上げたのは梓の方であった。


「お願い、こないでッ!」


 梓は首を左右に振りながら、自分の身体を抱きしめるような格好をしていた。


 進之介は梓の怯える訳がわからなかった。


 だが、よく考えれば進之介と梓は住んでいた江戸とはまったく別の世界で再会を果たしたのである。


 進之介自身、バンヘッドやエリファスのお陰で何とかこの世界が夢幻ではないことは理解できたが、それでも自分にとっては信じられない怪異な出来事には違いない。


 それは梓も同じだったであろう。


「梓さま、あなたが奇妙に思われることはよくわかります。ここはどうやら私たちがいた場所とは違う世界のようでござる。正直、先生がお待ちの江戸へと帰れるかはわかりませぬが、まずは早々にここより立ち去るが得策でござる。さあ、梓さま。どうかお手を……」


 精一杯の笑みで梓を迎える姿勢であった進之介に、まだ梓の表情は一切の変化が見られなかった。


 それどころか、梓はテラスから部屋の中へと逃げかねない体勢を取っていた。


「進之介……」


 梓が進之介の名前を呟くなり、誰もいなかった部屋の中から声が聞こえた。


「どうしたんだい、アズサ。そんなところで立ち尽くしていては風邪を引いてしまうよ」


 部屋の中から聞こえた声は男のそれであった。


 進之介がその声を耳にするなり、梓は血相を変えて部屋の中へと入ってしまった。


 すかさず進之介は梓の後を追った。


「お主は……」


 テラスから部屋の中を様子見た進之介の視線の先には、広々とした部屋の中央部分で梓を抱き締めている一人の白髪の男がいた。


 進之介は男に見覚えがあった。


 中庭の入隊試験で進之介に労いの言葉をかけた、アトランティス帝国の最高権力者、アダム・アトランティスであった。

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