第19話   赤い液体

 アトランティス城内にある広間には、200人以上の人間たちの姿があった。


 広間の一角から流れている心地よい演奏が場の雰囲気を盛り上げ、幾つかの円形の卓の上に並べられている料理の数々はまさに絢爛豪華。


 そしてその卓を囲いながら世間話に花を咲かせているのは、国王直々に招いたアトランティス領内の貴族や諸侯たちである。


 その誰もが高貴な服装で身を包み、主賓の到着を今か今かと待ちわびていた。


 どれぐらいの刻が経ったのだろう。


 グラスに注がれた高級酒をほどよく飲んでいた貴族や諸侯たちが、広間の扉から優雅に現れた主賓に視線を向けた。


 広間を警備していた兵士は一斉に直立する。


 国王、アダム・アトランティスの到着である。


 アダムは軽く右手を上げて微笑を浮かべると、広間に集まっている人間たちに向かって透き通るような声を響かせた。


「お集まりの方々、今宵も私の招待に応じていただき真に感謝しています。皆、これからのアトランティスの行く末が気になるとは思いますが、今宵はそのような話は避けて存分にお互いの親交を深めていただきたい。さあ、私のことは気にせずどうか心ゆくまでパーティーを楽しんでください」


 アダムの主賓挨拶が終わると、広間には拍手の雨が鳴り響いた。


 やがてアダムの周りには貴族たちが集まりだした。これからが晩餐会の本番である。


 アダムの元に集まった貴族の一人が、グラスを片手にアダムに話しかける。


「アダム陛下。今宵もこのような素晴らしい晩餐会にお呼びいただき心から感謝しております。僭越とは申しますが、先ほどの陛下の言葉を真に受けさせていただき存分に楽しませていただきますぞ」


 初老の貴族の言葉に、アダムはグラスを片手に微笑んだ。


「これはこれは、本音を言いますと皆様にはもっと切実に考えていただくためにあのような挨拶の内容にしたのですが、これはどうも裏目に出たようですね。だからといってここで訂正すれば私一人悪者になってしまう。ここは私の方が折れると致しましょう」


 2人の話を聞いていた周囲の貴族や諸侯たちからは笑いがこぼれた。


 その時、諸侯の一人であった男がいつもアダムと一緒に晩餐会に顔を出していたはずの女性の姿がないことに気がついた。


「はて? アダム陛下、王妃の姿が見えないようですが」


「ええ、彼女はどうもここ数日体調を崩していまして。今日は部屋で休ませています」


 アダムの言葉に貴族や諸侯たちの眼差しが一斉に向かい合った。


 皆、一様にアダムの顔が言葉とは裏腹にほころばせていることに気がついた。


「もしかすると陛下、お世継ぎが誕生なさるのでは?」


 一人の貴族がアダムに疑問を呟くと、


「まだ男子か女子かはわかりませんが」


 アダムは若干照れくさそうに返答した。


 この事実が広間中に蔓延するのに時間はさほどかからなかった。


 広間にいた人間たちからは、アトランティスを更なる繁栄に導く世継ぎの誕生に対して怒涛のような拍手と歓声が捧げられた。




 同時刻――。


 賑やかさを見せる広間とは別の場所では、ひっそりとある計画が実行されていた。


 城外にある兵舎に通じる道の途中には、さらに奥に通じる細い小道が存在していた。


 そしてその小道の先には太い大木に挟まれた遺跡のような建物が顔を覗かせており、建物の中に入るための鉄扉の前には二人の兵士が立ち番をしていた。


 2人の兵士はさして重要でもなさそうな場所で立ち番をしているのにもかかわらず、その顔は常に緊迫感に満ち溢れていた。


 ここは遺跡ではなかった。


 この場所こそが、エリファスの目的地であるアトランティス軍事科学研究所の入り口であった。


 兵士たちのすぐ近くには固定されていた松明の炎が辺りを明るく照らしていたが、その松明の炎が夜風で揺らめいた時、立ち番をしていた兵士の一人が声を漏らした。


「あれ?」


 すると、立ち番をしていた一人の兵士は見る間に目が虚ろになっていき、その場に眠るように倒れてしまった。


「おい、どうした!」


 隣にいた兵士が同僚の異変に気がつくと、鼻を何度かひくつかせて周囲を見渡した。


「何だこの匂いは? ……甘い……香りが……」


 周囲を見渡した兵士の鼻腔には、何か甘い香りが漂っていた。


 その香りを嗅いだ兵士はふらふらと身体をふらつかせ、隣で倒れている同僚と同じく地面に倒れてしまった。


 そして再び夜風が松明の炎を揺さぶると、兵士たちの正面の藪からひょっこりと顔を出す少女がいた。


 エリファスである。


 エリファスは右手に持っていた眠り薬の粉末が入っていた小瓶を丸鞄の中に仕舞うと、藪の中から二人の兵士がピクリとも動かないことを確認した。


 エリファスは恐る恐る藪から出て兵士たちに近づくと、「ごめんなさい」と平謝りをして鉄扉の前へと立った。


 鉄扉に付いていた取っ手を両手で握ると、顔を真っ赤にさせながら力一杯右へと引いた。


 鉄扉をゆっくりと開くと、遺跡のような研究所の中は吹き抜けになっているのか、地下からの生温い風がエリファスの黒く染めた髪を撫でていく。


「ここがアトランティスの研究所かぁ……奥が全然見えない」


 エリファスは螺旋式になって続いている地下への階段を覗き見ると、あまりの薄暗さと不気味さで思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。


 しかし、ここまで来て何もしないまま引き返す訳にはいかない。ここに父親がいるはずなのだ。


(だからこそ、やらなくちゃね)


 エリファスは手持ちの丸鞄からランプを取り出すと、そのランプに火を点けて研究所の中へと入っていった。


 かつんかつんと階段を踏み鳴らす音が異様に響く螺旋階段。


 エリファスは足を踏み外さないように慎重に階段を降りていった。


 壁側に手を触れながら階段を降りていくにつれ、エリファスはこの場所が地獄へと続いているような錯覚を覚えて身震いしたが、最下層に着いた時点でこの場所が研究所だということを改めて認識した。


 研究室独特の薬品が入り混じる嗅ぎ慣れた匂いに、長方形の木机の上には学術書や数々の実験器具が散乱している。


 そこは確かにアテナス研究所と酷似した雰囲気を持つ空間であったが、エリファスは周囲を見渡しながら何かが違うと動揺した。


 本来、どこの国でも研究所というのは特殊な情報と細菌感染を恐れて強固に隔離された室内にあるはずである。


 そしてその研究所の中は清潔第一を心上げ、日夜優秀な人間たちが研究に没頭している光景があるはずなのだが、


「どういうこと……職員が誰もいない?」


 エリファスが階段を降りて研究所の中に足を踏み入れても、一向に職員たちが駆けつけてくる気配がないのである。


 それどころか研究所の中にはただ不気味な静寂が広がり、研究所内を照らすはずの光源はずっと奥に灯っている異様な赤い光のみであった。


 エリファスはランプを片手に研究所の奥へと歩を進めた。


 研究所内に木霊する石床を踏み鳴らす甲高い音。


 途中、床に散乱していた注射器や実験器具を踏み割ってしまったが、元より床に落ちている器具などは二度と使用できない。


 エリファスは奥に灯る赤い光に近づくにつれ、心臓の鼓動が加速していくのを感じた。


 それはこの研究所内に居るはずの肉親に会える緊張からなのか、魂すらも吸い込んでしまうような赤い光に魅入られた恐怖からなのかは本人でもわからなかった。


 もしかすると、その両方だったのかもしれない。


 エリファスは道標として目指していた光源の場所にまで辿り着くと、口を半開きにさせながら唖然となった。


「これは……赤い液体?」


 エリファスは目の前に設置されている巨大容器の中にちゃぽちゃぽと満たされている赤い液体に目が釘付けになった。


 容器の外から見た感じだと色素が付いた水のようにも見えるが、おそらくもっと濃度がある別の液体だろうとエリファスは思った。


 アテナスでは助手として働いていたエリファスだったが、そのくらいのことは見ただけでもわかる。


 伊達にエリファスはアテナス研究所に10代の若さで入所した訳ではなかった。


 それこそ知識だけならば、他の職員にも引けを取らないという自負がエリファスにはあったのである。


 エリファスは学者としての好奇心からなのか、巨大容器の下に置かれていた金属の箱に足を掛けると、巨大容器に顔を近づかせて中身を凝視した。


「嘘……この赤い水自体が発光してるの?」


 巨大容器の中に満たされていた赤い水はそれ自体が薄い光を発し、まるで見た者を奮い立たせる神秘的な魅力を醸し出していた。


 そしてその赤い水にしばし魅了されたエリファスは、自分の背後に立った人間の存在に気づかなかった。


「いけない子供だな。勝手に人の聖域に侵入するとは」

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