第18話   運命の別行動

 夜空に浮かんでいるはずの淡い燐光を放つ月は、暗色の雲に遮られてその姿を見せてはいなかった。


 やや激しい風が吹き荒れている。


 時刻は深夜。


 人々が夢の中に誘われる時間帯ではあったが、ゼノポリスの繁華街には時間というものは存在しない。


 繁華街に点在する各店から漏れ出る光源は微々たるものだったが、その光はやがて一つの点となり、ゼノポリス全体を覆い尽くす巨大な光海になるのである。


 それに比べて、アトランティス城内には活気や喧騒などとは全く無縁な静寂が広がっていた。


 しかし、城内にある社交場では将校たちや貴族を迎えるために今日も盛大な晩餐会が開かれていたが、それも末端の兵士には関係のないことであった。


「今日はまた一段と冷えるな」


「まったくだ。さっさと交代時間にならないのかね」


 二人の兵士はちょうど昼過ぎに入隊試験が行われた中庭の広場を巡回中であった。


 深夜の広場には恐ろしいほどの静寂と闇が広がり、巡回していた兵士たちが持っている松明の灯火だけが唯一の光源であった。


「おい、さっさと行こうぜ。こんなところ見ても誰もいねえよ」


 松明を掲げた一人の兵士が広場をざっと見回すと、特に念入りに見回ることもせずに立ち去ろうとする。


 ただでさえ冷え込む夜だというのに、一切の光源がない不気味な場所を見回る根気は兵士たちにはなかったようである。


 松明を持っていた兵士の隣にいたもう一人の兵士も、同僚の意見に賛成したのか足早に広場から立ち去っていった。


 二人の巡回中の兵士が広場から姿を消すと、闇の中にうっすらと人影が現れた。


 進之介である。


 進之介は消灯時間が過ぎた兵舎から一人抜け出すと、昼間に入隊試験を受けた広場へと足を運んだ。


 当然の如く、誰にも姿を見られないように厳重に注意してである。


 そして広場に到着した進之介は、三間先すらも満足に見えない広場の中を一望した。


 意識的に集中した進之介の視界には、木々の群生がうっそうと生い茂る一角に浮かぶぼんやりとした光を発見した。


 進之介はその光の場所まで足音を立てずに疾走して近づくと、小声で光の場所に向かってそっと話しかけた。


「エリファス殿、拙者でござる、進之介でござる」


「シンなの?」


 進之介の小声に反応してがさがさと木々の群れの中から顔を出したのは、黒髪に染めていたエリファスであった。


 エリファスは進之介の姿を見るなりほっとすると、緊張が解けたのか笑顔をほころばせた。


「待ちくたびれちゃったよ、シン」


「申し訳ない。城内の見取り図の確保や兵舎から抜け出すのに一苦労でござった。あ、よかったら食べてくだされ」


 進之介はズボンのポケットから兵舎に置かれていた携帯用の見取り図と一緒に、夕食に出たパンを包んだ袋を取り出した。


 エリファスは嬉しそうに両方を受け取った。


「ありがとう。手持ちの食料はとっくに食べちゃったからお腹ペコペコだったんだよ」


 エリファスは進之介から手渡されたパンを口にしながら、パンと一緒に手渡された携帯用の見取り図を地面に置いた。


 そのままだったら暗くてとても見られない見取り図も、エリファスが丸鞄から取り出した小型のランプであれば周囲に光が漏れることなく地図だけを照らすことが出来る。


 エリファスはランプの蓋を開けてそっと火を点けた。


「それにしても」


 エリファスは地図を広げながら正面にいる進之介の顔を覗き見た。


 進之介もつられてエリファスに顔を向けた。


「本当にシンにはそんな力があったんだね?」


 エリファスが不思議そうな顔をして尋ねると、進之介は無言でうなずいた。


 進之介とエリファスは、アトランティス城に足を踏み入れた後のことについて何通りか事前に計画を立てていた。


 その計画の一つに、入隊試験中に進之介が周囲の注目を浴びるほどの立ち回りを見せ、その隙にエリファスは城内に隠れてやり過ごすというものがあった。


 もちろん、すべての計画は進之介が入隊試験に合格すると過程して立てられていた。


 そして実際に入隊試験場所である中庭の広場を見て、2人はすぐにエリファスが隠れられるような場所を見つけた。


 外壁側にうっそうと生い茂っている木々の群生である。


 まさに人一人隠れる場所にはうってつけの場所であったし、幸運にもその場所の近くには志願兵の付き添いで来ていた集団の姿があった。


 あとは進之介が大立ち回りを見せている間に、予め付き添いの集団に紛れ込んでいたエリファスが頃合いを見て身を隠せばよかったのである。


 計画は成功した。


 進之介が他人の試験に乱入してしまったのは計算外であったが、そのことが返って功を成した。


 国王アダムの参上であった。


 他人の入隊試験に乱入した進之介の技量を、顔を見せにきたアダムが直々に褒め称えたのである。


 言うまでもなく、その場にいた人間の目線はアダムに釘付けになった。


 その隙にすかさずエリファスは木々の中に身を隠したのである。


 あとは人気がなくなる深夜までお互い別行動を取った後に合流となっていたが、この計画を立てているときに進之介は合流の方法を提案していた。


 人間の身体を覆っている〝気〟を視覚で捉えられる進之介の〈殺視〉の力である。


 話を聞かされていたエリファス自身も半信半疑だったが、広場に影のように現れた進之介が明かりもないまま簡単に自分の場所を特定できたのだから信じないわけにはいかない。


 エリファスには殺気や闘気の類は放たれていなかったが、その代わりに城全体に対する敵愾心が纏われていた。


 手配人のエリファスは絶対に城の人間には見つかってはいけない人間である。


 そのエリファスの感情が進之介の〈殺視〉には視覚として捉えられ、闇夜の中でもエリファスの場所が瞬時に特定できたのである。


 すべての不確定要素が見事に一つに組みあがり、こうして進之介とエリファスは無事に出会うことが出来た。


 ここまでくれば、後は計画の最終段階を残すのみである。


「エリファス殿、拙者は異国の地図は読めぬでござるが、兵舎という場所まで案内される間に色々と建物を拝見してきたでござる」


「うん。兵舎はここだね」


 エリファスは地図内の一角を指差した。


 進之介が持ってきた携帯用の見取り図には、城外周辺と城内一階部分の各部屋が四角い線として描かれていた。


 複数の四角い線の組み合わせで描かれている地図には、所々の部屋の名前が異国の文字で書かれている。


 進之介が案内された兵舎は広場から城を挟んだ反対側に位置していた。


 地図では一番右上の位置に描かれている。


「この地図は簡易版だね。多分もっと建物内の構造を明確に記した地図があるはずだけど仕方ないか。昨日今日入った新兵には無縁な地図だからね」


 エリファスの言葉に進之介は低い声で唸った。


 頼みの綱であるエリファスが建物内の構造が把握できなければ、それこそ進之介には手も足も出ない。


 進之介は両腕を組み眉間にしわを寄せていると、エリファスは進之介を見て笑った。


「でもこの地図を見たお陰でわかったことがある。このアトランティス城を設計したのはアレクサンドルだよ」


 進之介は首を傾げると、異国の大工職人のことかと想像した。


「アレクサンドル・バーン。有名な建築家であり同時に変人としてでも有名だった人だよ。以前この人が手がけた建築学の書物を読んだことがあるけど、このアレクサンドルって人の建築方式は完全に統一されるんだよ。どこの国で設計したものでもね」


 エリファスの言っていることに、進之介は未だ首を傾げたままだった。


「例えばね、この人がどこかの国から依頼されて城を設計したとするでしょ。するとその城の内部構造が今まで別の国で設計した城の内部構造とすべて同じになるんだよ。例外は無し。それでね、私がいたアテナス城もアレクサンドルが設計した城なんだよ」


 さすがにここまで聞かされると、異国の事情に疎い進之介にも察しがついた。


「それではエリファス殿には……」


「うん! 父さんのいる研究所も進之介の探しているアズサさんの場所も大体わかる。アテナス城の内部とほとんどおなじだからね」


 と、はっきりと断言したエリファスだったが、問題はまだ残されていた。


 それは城内の内部構造が同じだったとしても、配備されている兵士の数まではわからないことである。


 特に国の重要機関である軍事科学研究所と、王妃となった梓がいるであろう寝所付近に配備されている兵士は厳重極まる警備体制なのは目に見えている。


 さてどうしたものか。


 エリファスも進之介と同様に両腕を組んで唸った。


 エリファスは手元にある見取り図と自分の頭に記憶されているアテナス城の内外部を照らし合わせてみると、おそらく父親がいる研究所は城外のはずれにある地下室から行くことが出来る。


 地図を何度も確認してみても、広場から外壁を迂回していけば兵士に見つからずに到達できる可能性が高い。


 だが、問題は進之介が探している梓に辿り着くまでの道程である。


 エリファスは城内に侵入しなくても研究所に辿り着くことが出来るが、アズサの寝所までは城内に侵入しなければならない。


 もし警備兵でもない人間が王家の寝室近辺でうろついていれば、間違いなく拿捕されて相応の裁きを受けるだろう。


 エリファスも何とか進之介の願いを叶えたいと頭の中で色々と思案していると、進之介は至極当然のように口にした。


「城壁を登って行けば上まで辿り着けるでござる」


「ほえ?」


 頓狂とんきょうな声を上げたエリファスと違って、口にした当の本人である進之介はいたく真面目な顔で城の上空を見上げた。


 2人がいる広場からは巨大な城壁しか見えなかったアトランティス城だったが、進之介が兵舎にいた兵士にさりげなく聞いた話によると、このアトランティス城は円形の尖塔が無数にひしめき合っており、それが屋根伝いに構築されている城であるとのことであった。


 そして実際に、その部分を自分の目で進之介は確認したという。


 エリファスはハッと気づいた。


 エリファスがいたアテナス城もそのような造りであると記憶している。


 つまり進之介は危険を犯して城内に侵入するよりも、延々と屋根伝いになっている尖塔を登って王室の寝所までを目指すつもりであった。


 しかし、これも決してよい案とは思えなかった。


 いくら屋根伝いに侵入するとしても、構造上とても不安定な足場も無数に存在するし、警備の兵士に見つからないとも限らない。


 ましてやそんな場所で万が一見つかってしまえば、絶対に言い逃れや逃走することもできないだろう。


 エリファスは正面にいる進之介に視線を向けた。


 城を眺めている進之介の横顔には、これから起こす行動に対する不安や恐怖の色が見られなかった。


 ただ、目的のために自分の命を賭ける剣士の表情が浮かんでいた。


 エリファスは進之介の覚悟を見せられると、改めて悟らされた気がした。


 たとえ僅かな可能性だとしても、その可能性がまったくゼロでないのならばそれに命を賭けてみる。


 元より国を抜け出したエリファス自身、その覚悟があったはずであった。


 慎重に慎重を重ねることは重要だが、慎重になりすぎて僅かな可能性を否定することもない。


 時に慎重さよりも大胆な発想が身を助けることもある。


 まだ幼少だった自分にそう教えてくれた人物に、これからエリファスは会いに行くのである。


「シン……」


 エリファスの言葉に進之介は城からエリファスの顔に視線を移した。


 エリファスは満面の笑みを浮かべ、右手の親指だけを立てていた。


「絶対に梓さんを連れ帰ってくるんだよ」


 進之介はエリファスに習って自分の右手の親指だけを立て、満面の笑みを返した。


「エリファス殿もでござる」


 右手の親指を立てて相手に笑顔を向ける。


 これはアテナスでは自分と相手の幸運の無事を祈る行為だとエリファスから聞いていた。


 そしてお互いの士気が向上したところで、エリファスは持参した鞄の中に火を消したランプを仕舞うと、見取り図を進之介に返した。


「では、まずはエリファス殿のお父上がいるところでござるな」


 腰に差した大小刀を押さえて立ち上がった進之介は、自分が来た道程をすかさず確認した。


 続いてエリファスが立ち上がると、おもむろに進之介の手前まで歩いていき、勢いよく振り返って首を左右に振った。


「ううん。いいの、ここからは別行動だよ」


 なぜと言いたげな顔をした進之介に、エリファスは再度首を左右に振って言葉を制止させた。


 エリファスの言いたいことに何となく進之介には察しがついた。


 場所と距離の問題である。


 2人がいる広場から軍事科学研究所があるであろう場所まではまったくの正反対な位置に存在する。


 だが、進之介が屋根伝いに寝所まで侵入するとしたら、この広場にいることは実に都合がよかった。


 なぜなら、この広場の近くにはすぐ城内に侵入できる通路があり、その通路の先には2階部分に上がれる階段が存在する。


 その階段を上がったところにあるテラスを抜ければ、そのまま屋根伝いに上まで登って行けるのである。


 城の内部構造を熟知していたエリファスはきっぱりと断言した。


「私は一人でも大丈夫。だからシンはこのまま兵士に見つからないように城内に入って」


 言うなりエリファスはその場から走り出そうとした。


 すかさず進之介は、エリファスの手首を摑んで行動を制止させた。


「エリファス殿の気持ちはよくわかり申した。どうかエリファス殿もくれぐれも気をつけてくだされ」


 進之介は腰に差していた脇差を革ベルトから引き抜くと、エリファスの小さな手に握らせた。


 エリファスの手には脇差の重く冷たい感触が広がる。


「うん。ありがとう、シン」


 エリファスは護身用に手渡された脇差をぎゅっと抱きしめると、軽快な足取りで広場の向こうに走っていく。


 やがてエリファスの身体が見えなくなると、進之介は城を見上げながら呼吸を落ち着かせた。


 細く長い息を吐き出して心身を落ち着かせた進之介は、城内に続いている通路に向けて移動しようとしたが、


「エリファス殿……」


 進之介は走り出そうとした身体を自分の意思で止めると、エリファスが消えていった方向を見つめた。


 進之介の視界には、初めて本当の名前で呼んでくれたエリファスの後ろ姿が幻影のように浮かんでいた。

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