第17話 女勇者の事情
「そっか……そっちの抱くだったか」
「ん? そっちの抱くとは?」
銀髪の女勇者は切れ長の目をパチクリと不思議そうに瞬かせている。
「なんでもない! こっちの話だ!」
幸いにして性の化け物は生まれていなかった。ネグリジェ少女は生まれたてのひな鳥だった。少なくとも、『一度、抱かれた男と再びベッドで抱き合う』ことの重大さを彼女は少しも理解していなかった。
実に危うい。心から心配になってくる。だが、一方で不覚にもそんな無垢な女勇者を愛らしく思ってしまう。
「分かった。せっかく部屋まで来たんだ。罪滅ぼしも兼ねて俺にできることならなんでもしてやるよ」
黒髪青年は大人の余裕を見せつけるように小さく微笑み、ベッドに横になると銀髪の女勇者の肢体を正面から抱きよせて両腕でそっと包み込む。
「これで……いいか?」
女勇者が胸の中でこくりと頷く。妙に擽ったい。
「誤解するな……入れ替え戦にプレッシャーなど感じていない。この私が普通に戦えば並みの冒険者などに負けるはずがないからな」
「ああ。俺もお前が挑戦者に負けるなんて微塵も思っちゃいないさ」
「ただ初めての入れ替え戦だからな。万が一のことがあったらと……少しだけ神経質になっているだけだ……」
それを世間ではプレッシャーを感じていると言うのだが、なにも言うまい。
「まあな、初体験というものはどんなことでも緊張するものだからな。俺も初めて魔王ダンジョンに挑んだ時は緊張で眠れなかったものさ」
フォローのつもりだったのだが、見事なまでに逆効果だった。
「そうだな! 貴様に初めてを奪われたあの夜も口から心臓が飛び出しそうなほど私は緊張していたからな! それなのに貴様ときたら!」
「悪かった悪かった! 俺が悪かったから! 落ち着けジュリアン! 興奮したら余計に眠れなくなるぞ!」
上目遣いで睨みつけてくる女勇者の背中を赤ん坊でも寝かしつけるみたいに優しくさする。すぐに彼女の表情が落ち着きを取り戻す。それからなにを思ったのかスンスンと鼻先を揺らす。
「ちょ、止めてくれ! 匂いを嗅ぐなって! 今日はまだ風呂に入ってないんだよ」
「別に臭くはないぞ? むしろ好ましい匂いだ。貴様の匂いを嗅いでいるとなぜか気持ちがとても落ち着く」
「そ、そうか? 寝れそうか?」
「ふむ。なぜ貴様の匂いはこんなにも落ち着くのか……謎だ」
「人の話を聞けよ」
マイペースな女勇者は理由を確かめるように鼻先をぐりぐりとユウヒの胸に埋めてくる。おそらく他意はない。なにせ彼女は無垢なひな鳥なのだから。
だが、黒髪青年とっては途轍もない苦行である。
甘い香りが鼻孔を擽り、極上の感触が絶え間なく全身を刺激してくる。細身で引き締まっているはいるが、女性らしい部分はちゃんと柔らかい。
(記憶はなくとも肉体は覚えているってことか……)
彼女に触れていると、恐ろしいほど情欲が押し寄せてくる。自分のことを割と理性的な人間だと思っているのだが、果たして朝まで我慢できるだろうか。
気を紛らわせるために黒髪青年はたわいもない話題を振る。
「ジュリアンは眠る時、いつもその長剣を枕元に置いてるんだな」
「これは母の形見なのだ」
「そうだったのか」
「母は最強の剣士だった。私は母より強い人を見たことがない」
腕の中でジュリアンが普段は決して見せることのない柔らかな笑みを浮かべる。
「病気さえなければ母は間違いなく勇者になっていただろう」
「ジュリアンは母親に似たんだな」
「うむ。だから私は母の名誉のためにも誰にも負けるわけにはいかぬのだ。そして、父や兄たちの期待を裏切らぬためにも私は立派な勇者であらねばならぬのだ……」
母親とは一転、父親や兄たちに関しては明らかに気が重そうだ。
「……我がアーセナル家はこの神聖アリアンツ帝国で名の知れた武門だ。しかし、これまで一度も勇者を排出したことがなかった。父はそのことをひどく恥じていて、私や兄は幼い頃から勇者になるために厳しく躾けられてきた」
「ならジュリアンが勇者になって親父さんたちはさぞ誇らしいだろうな」
ところが、ジュリアンは銀色の頭を重そうに揺らす。
「どうだろう……父に褒められたことは一度もない。勇者として恥ずかしくない振る舞いをするようにと常に厳しく言われている」
エマに聞いた記憶がある。ずいぶんと厳格な父親らしいと。
「兄たちとの関係も良好とは言い難い。兄たちは妹の分際で勇者になった私のことを疎ましく思っているのだ」
おそらく無意識だろう。ジュリアンがぎゅっとユウヒの胸にしがみ付いてくる。
「そんな父や兄が今回の入り替えを見届けに王都にやって来る。無様な戦いを見せるわけには絶対にいかないのだ……」
黒髪青年はようやく理解する。
(そうか……ジュリアンは入り替え戦にプレッシャーを感じているのではなく、親父さんたちが見に来ることにプレッシャーを感じているのか)
黒髪青年はすぐさま銀髪の女勇者を強く抱きしめる。ジュリアンが驚きに目を丸くしたのは言うまもでない。
「だったらもう喋るな! さっさと寝ろ! 万全の状態ならお前が負けることなんてないんだ! 圧倒的な勝利を見せつけてやれば親父さんたちも納得するさ!」
さらに銀色の頭を優しく撫でてやる。
「……うん」
聞き分けの良い小さな女の子のように女勇者が素直に目を閉じる。このまま眠ってくれれば助かる。
(よし……ジュリアンが完全に寝たらこっそりとベッドを抜け出そう)
さすがに朝までこうして抱き合っているのは不味い。こっちも限界なのだ。なにがとは言わないが。
黒髪青年は赤ん坊を寝かしつけるみたいに優しく銀色の頭を撫で続ける。
腕の中で大人しく丸まっている女勇者は普段とのギャップもあってやたら可愛いらしく見えてくる。思わず口元が緩む。
こんなだらしない顔を見られたらいろいろと誤解されそうだと、思った瞬間だ。彼女がパチンと瞼を持ち上げる。ユウヒは慌てて表情を引き締める。
ジュリアンが切れ長の目を潤ませながらこちらを見てくる。
「……なあ。ユウヒ・マンチェスター」
「な、なんだ? どうした?」
「今夜は……あの夜みたいに私に囁いてくれないのか……?」
おねだりをするみたいにじっと見つめてくるのだ。素直な彼女は恐ろしいほどに魅惑的だ。天然の小悪魔爆誕である。
「あ、あの夜みたいに……?」
一瞬だけ困惑したが、すぐさま思い出す。
「————ジュリアンは世界で一番可愛い」
そう耳元で優しく囁くと、ジュリアンは「ふふふ」と満足そうに小さく笑って再び目を閉じる。
ユウヒは呪いの人形のごとく彼女が完全なる眠りに落ちるまで『ジュリアンは世界で一番可愛い』と繰り返し囁き続ける。
やがて胸元から規則正しい寝息が響いてくる。
「ふー、お姫様がようやく眠ってくれた……」
黒髪青年から安堵のため息がこぼれる。気づけば窓の外はすっかり夜のとばりに包まれている。なんだか腹も減ってきた。帰りに飯でも食って帰ろう。
そうベッドから抜け出そうと試みる。しかし、身体がぴくりとも動かない。なぜなら女勇者の両手でがっちりと身体がホールドされているからだ。
力を込めるがビクともしない。しばらく足掻いたが無駄だった。
「マジかよ……これ、どうするんだよ……」
幸せそうな寝顔を浮かべる彼女を起こすわけにもいかない。
最終的にユウヒは「あー、くそ」と片手で黒髪をかき混ぜると、すべてを諦め目を閉じるのだった。
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