第4話 ちなみと共に車いすの青年 宮下氏のヘルパーとなる
車いすの青年は、なつかしそうに頷いた。
九年前より、少々太ってはいるが、屈託のない笑顔は昔のままである。
「そういえば、そういうことありましたね。あれは九年前くらいのことだったかな?
あのときの僕は、僭越ながら陸上選手で結構、女の子にモテた時期だったんですよ。たしか兄貴の経営するフラワーカフェで、白い鉄砲百合を買っておられましたね。
実は、僕も大きく華やかなカサブランカの百合よりも、細長い鉄砲百合の方が、なんとなく素朴で控えめで好きなんですよ。
好みが同じだと、少々感激したものです」
そういえば、そんなことがあったなあ。
私は今でも、百合の花が好きであるということは、変わってはいない。
宮下氏の授業は、身障者差別を受けたという事実よりも、自分の体験を淡々と語っていた。
小学校のときから、体育教師を目指していたが、体育大学一年のときに、スピード違反で車いす生活をおくるようになったこと。
頸椎を損傷しているので、一生治る見込みはあり得ないこと。
現在は、兄の経営するマンションで一人暮らしをしているが、起床したときから、小便まで人の手を借りねばならないこと。
しかし、一人でアメリカに行ったが、アメリカは銃社会で、自己保身のために銃をもつことが当たり前だという社会に驚いたこと。
いずれも暗さは感じられず、一人でアメリカに行ったという事実に、ただ感嘆するだけであった。
宮下氏の授業は初日のみであった。
のちに、スマホで宮下氏の名前を検索すると、なんと宮下氏は地域の役員や、身障者用具販売の役員までしているという。
私は早速、宮下氏に連絡した。
「今日の授業、感動的でしたよ」
宮下氏は、九年前と同じく気さくな物言いで
「アメリカに行ったときは、銃社会でビビりましたがね、今から思えば良い体験でした。日本の素晴らしさがわかりましたよ」
私は、なんとなくほっとした気分になり、将来への希望を与えられた。
介護学校を無事卒業し、ヘルパーの資格を取得した私、まどかは、宮下氏担当のヘルパーを志願した。
毎日は無理だから、週二回を希望し、宮下氏の自宅を訪れた。
すると、宮下氏の兄が現れた。
セロファンテープに包まれた、白い鉄砲百合を私に差し出し、
「これから、弟のあつしをよろしくお願いします」と深々と頭を下げた。
こちらこそと言おうとしたとき、部屋の中には、なんとちなみが演歌を歌いながら、宮下氏の着替えを手伝っていた。
ちなみの演歌は、こぶしがきいていて声量もあり、プロはだしだった。
「あっ、まどか。あのときは申し訳なかった。
私は、まどかに合わせる顔はなかったよ」
私は、思わず
「もうそのことは気にしなくていいよ。
もう済んだことだし、ちなみも悪党にカルトされた被害者だったんじゃない」
ちなみは、うつむきながら答えた。
「確かにあのときは、考えもなく、誘われるままについていった善人だと思っていた人が、私を利用するために近づいてきた悪党だったとは、夢にも思わなかったわ」
私は思わず、
「女性は、甘い言葉に乗せられ、考えるヒマもないほど悪男に依存するケースが多いけど、考えなくなったとき、カルトされてしまう。
といっても、それに気づいたときは、思考回路が奪われるほどショックを受け、ワル男の家畜になってしまうケースが多くなってしまう。
そうなれば、人間としての尊厳を奪われるほど、辛いことを体験せざるを得なくなるほど、落ちぶれてしまう」
ちなみは納得したように言った。
「まさに私はまどかの言う通り、半分はワル男の家畜になりかけだったのよ。
でも、その話は今は話したくない。
それよりも、まどかが私を赦してくれたことが何よりの救いよ」
まどかは話題を変えた。
「ちなみって、演歌が上手いね。もしかしたら、いろんなことを体験してきたから、心がこもってるんじゃないかな」
ちなみは答えた。
「まあ、精神的に葛藤したり苦労したことだけは確かよ。
今度はその体験を活かして、宮下さんの介護をしていきたいと思っているの」
宮下氏は、現在は兄の経営しているマンションの一室に、一人暮らしをしているが、介護内容は、身体介護である洗顔、着替え、排泄の介助であるが、私は新人だから、先輩にあたるちなみに教えてもらうことになっている。
今の私にできることは、掃除、洗濯、料理、買い物という生活介護である。
宮下氏は、ありがとうと言いながらも、なぜかいつもニコニコ顔である。
この瞬間、命の息吹きと共に、生かされている感謝を感じさせる。
宮下氏曰く
「僕は今、生きているというよりも、周りによって生かされている。
だから今、タイムリミットである瞬間を、感謝しなきゃ。
僕が暗い顔をすると、まわりまで伝染するかもしれないし、世話をして頂いている人にも申し訳ないでしょう。
僕は白い百合のように、精神はいつも汚れなき白でいたい」
私は、宮下氏の話を半ば感動して聞いていた。
「そりゃあ、僕は交通事故にあった当時は、落ち込んだし、この世に自分の居場所はどこにもないんだと、自殺も考えました。
しかし、居場所というものは、自分でつくりあげるしかない。
だから、世話をしてもらっているという引け目はあっても、世の中のすき間に割り込んでいく勇気も必要なんだ」
私とちなみは、宮下氏の演説に聞き入っていた。
「亡き母親とは、ほとんど交流がない状態でしたが、車椅子生活になってからは、僕を心身ともに支えてくれました。
だからこそ、残された命をまっとうに生きようと決心したんですよ。
健康な人でも、麻薬中毒やクレプトマニアのように、悪事がやめられない人もいる。
僕は、自分がまっとうに生きることが、亡き両親と世話をして頂いている人の最大の御恩返しだと思っているんです。
僕の場合は、頸椎をやられているから、一生治る見込みはない。
だから、生かされている一瞬、へベルのときを後悔しないように生きたいんです。
身障者は世話をしてもらうだけではなく、人に与えるものがあると、教えてくれたのは、母親でした」
ちなみは答えた。
「実は私、宮下さんに助けられている最中。
私はいろいろあって、一時はひきこもりのようになっていたの。
でも、宮下さんと接するうちに、なんだか薄暗いトンネルの向こう側からほのかな光が見えるようになってきたわ」
宮下氏は答えた。
「じゃあ、僕は蛍光灯か? いや、それともちなみさん専属のスターか?
一度の人生、今日のへベルの日は、笑っていきようよ。あっへベルというのは、一瞬のこと。一日はへベルの積み重ねですよ」
ちなみは答えて言った。
「私にはへベルの一瞬という言葉が、響いたわ。
そうね。私はタレントにしてやるなんて、甘い言葉に一瞬のうちでひっかかった挙句、一瞬の間で悪党に捉えられたが、一瞬のスキを見て逃げ出した。
お恥ずかしながら、私は悪党からレイプされかかり、風俗に売られそうになっちまったの。
そのとき、私が勝手に隠し撮りしたまどかの写真を、利用いや悪用されちゃったの。それが風俗の広告に使われるとは、想像もしていなかったわ」
私は、ため息をつきながら答えた。
「まあ、そんなことだろうと想像していた。
夢をもった若者を陥れる、よくあるパターンね。
どうせ、大手プロダクションの傘下に入っているなんて言葉で、誘い込まれたんでしょう。
でも、なぜ私の写真を隠し撮りなんかしたの?
気軽に撮影させてと言ってくれたら、よかったのに」
ちなみは、驚愕の表情を浮かべた。
「まどかの言う通り、私の入っていた無名プロダクションは、大手プロダクションの傘下に入っているなんていう証拠はどこにもなかったわ。
悪党に、いずれは君をユニット歌手としてデビューさせる。
ペアで売り出したいから、写真を見せてくれと言われ、その通りにしたに過ぎなかった。私は大人の言いなりになってしまう意志の弱い、とんでもない子供だったのよね。もっとも今から思えば、私みたいな子をカモにして、金にしようと思ってた悪党にひっかかってしまったのよね」
私はため息をついた。
「ある歌手志望の女性は、大手プロダクションの傘下を名乗っている無名プロダクションに入り、半年間ボイストレーニングを積んでさあ、今日がCDレコーディングと連れた行かれたところが、なんとAVの撮影現場だったの。
その女性は契約書にいったんサインしたから、取り消せない、違約金として二千万円払え、実家までとりにいくぞと脅され、泣く泣くAVに出演したという報道を聞いたことがあったわ」
宮下氏は答えた。
「そういえば、昔、報道されていましたね。
現在は、国会にも取り上げられ、前日に断れればなかったことになったけどね。
女性は被害を受けたことを、黙って隠し通しておけないから、いずれは暴露するんだよね。
実は僕も、車いすになる前の高校二年の春休み、繁華街を歩いていて顔なしの上半身だけのモデルになってくれと、名刺を渡されスカウトされたんだけど、なんとなく、ヤバイものを感じて逃げ出したよ」
私とちなみは顔を見合わせ、同時に言った。
「顔なしのモデルなって、ありえないよ」
宮下氏は、納得したように答えた。
「あとからわかったことだけど、AV男優のスカウトだったという噂を聞いたよ。
ひっかからなくてラッキーだったよ」
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