天国と冥界の境目
火星に戻ると、私は"狼の心臓"をベルフラワーに停め、ニューカラント西部鉄道に乗り、エル・コーヒーへ向かった。エル・コーヒーの街があるピーナッツ・バレー地区は、ニューカラント州法であらゆる個人用航空機の使用が禁じられている航空機制限区域に指定されていた。数年前、ピーナッツ・バレーで起きた残忍な連続殺人事件の事後対応策の一つとして制定された法だ。
当時、ライセンスを取得したばかりだった私も、探偵協会員で結成された有志連合の一員として捜査に参加していた。捜査チームのメンバーの中には、ピーナッツ・バレーを武勇伝として語る者も多い。自分こそは残忍な怪事件を解決に導いた立役者なのだと。しかし私は、到底そんな感情になることはできなかった。ピーナッツ・バレー事件の被害者の多くは、非力な女性だった。ちょうど、アンジェラ・ロメロのような。そして、我々がもう少し利口であれば、防ぐことができた殺人もあった。確かに事件は「解決」したと判断された。が、功績として語るにはあまりにも胸糞が悪すぎる。私にはまだ、あの事件を語るだけの言葉はない。
ピーナッツ・バレーの一件以降、この地には二度と訪れまいとしていたが、どうやらそれは許されないらしい。私に、贖罪の意志を忘れさせないためなのだろうか。冥界の呪いか、あるいは天国からの試練か。あるいは––––
どうかしている。普段の私ならば、目に見えない存在に責任転嫁することなどないはずなのに。
しかし、この地を訪れざるを得ないタイミングであることは認めなければならない。私はかつてと同じような過ちを犯そうとしている。誰も救うことができず、何も解決できない無能さを突きつけられているような気がした。
私は車窓から見える大自然を眺める。広がる荒野と先に聳える山々。すべてを包み込む空。流れていく雲。ため息がでるほど美しい光景だった。色彩の見えない私でさえそう感じる。
それでも、私の世界は晴れない。黒い煙が立ち込め、白い靄がかかったまま。
無性に煙草が吸いたい気分だった。
エル・コーヒーの駅前ロータリーで待っていたスギサワの足元には、三本の吸い殻が落ちていた。彼は私に気が付くと、四本目の煙草をアスファルトの上で踏み消しハインラッドナンバーのセダンに乗り込んだ。
私は助手席に乗り込む。車内のラジオでは、ハインラッド・ラッツの中継が流れていた。
車が走り出すと、私は窓を開けて煙草を吸った。スギサワは何も言わなかった。きっと彼も、ピーナッツ・バレーの悪夢を見ているのだろう。彼もまた、あの事件捜査に関わった罪人の一人なのだ。
私たちは贖罪の煙を吐き、各々の時に思いを馳せる。まるで、ここには自分一人しか存在しないかのように。
沈黙の三十分が過ぎ去り、ニューカラント州最西部の太陽系連邦捜査局に到着した。
スギサワはすれ違った何人かの捜査官と親しげな挨拶を交わし、私は当たり障りのない笑顔を浮かべて会釈した。
受付で、探偵ライセンスの提示と顔認証を求められた。例外はないようで、捜査官のスギサワも同じように本人確認が行われていた。
「あんたも認証が必要なんだな」
「支局が違うからな」スギサワはぶっきらぼうに答える。「ハインラッド支局以外じゃ、どこの支局でも原則認証が必要なんだ。支局内の施設を利用する場合はな」
無事に私たちの身元が安全だと判断されると、ポール捜査官が先導した。ポール捜査官はアンドロイドの捜査官で、来客者に支局内を案内する役割が与えられているようだった。私としても、アンドロイドの案内人は歓迎だ。余計な会話をしなくて済むのだから。
通路を東に進み、二つ階段を下ると、窓のない通路に入った。精神病棟のように殺風景で嫌に消毒臭い通路だった。
ポール捜査官は、その通路の先で止まった。どうやら、彼の案内はここまでらしい。ドアの電子ロックを解除すると、脇に避けて敬礼のポーズをとって止まった。
表札には「科学捜査研究所」と書かれていた。
スギサワに次いで中に入ると、白衣を羽織った小柄な女性と目があった。彼女は私を一瞥すると、スギサワに目配せし、奥へと歩き出した。
「何かわかったか?」歩きながらスギサワは訊いた。
「いいえ。詳しい解剖はこれから。まだ運ばれてきたばかりなの」科捜研の女は答えた。
「見つかった場所は?」
「ラビットホープと聞いている」
「ラビットホープで見つかった死体が、わざわざここまで運ばれてくるのかい?」私は思わず口を挟んだ。
科捜研の女は立ち止まらず、私を一瞥すると前を向いた。「ニューカラント州の捜査局の中で、科捜研があるのはベルフラワー支局とここ、エル・コーヒー支局のみ。ベルフラワーは小さいから、大抵はエル・コーヒーまで運ばれてくる」そして、鋼鉄の扉の前でくるりと反転し、立ち止まる。「あなたは?」
「探偵さ」私はコズミックウオッチでライセンスをホログラム表示してみせた。
「そう」彼女は興味なさそうに頷くと、首から下げていた入館証をみせた。「ヨシエ」そして、くるりと回り、入館証をあて電子ロックを解除した。
扉の先は、死体安置所になっていた。
ヨシエ捜査官は、細い指先で遺体が安置されている扉の番号を数えていく。やがて、当該の番号を見つけると、鉄の扉を開けた。冷気が煙と共に溢れる。
検査台に男の遺体が載せられた。
「イム・ヘジン。窃盗と恐喝で逮捕歴があった」ヨシエ捜査官は死体を覆っていたカバーのチャックを下げた。「発見場所はラビットホープ郊外の林の中。死体は裸で、身元を示すものは何もなかった」
「逮捕歴から身元を割り出したってわけか」手袋をはめながら、スギサワは言う。「死因は?」
「脳挫傷。見ての通り、酷い暴行が原因ね」ヨシエ捜査官はバインダーに挟んでいた写真を死体の枕元においた。
死体は酷く損傷していた。身体中にアザがあり、表面の皮膚は捲れ、爛れていた。それでも、安置する過程でいくつかの処置がされたのだろう。少なくとも、手足はあるべき方向に収まっている。が、写真の中の死体はさらにむごたらしかった。手足はあらぬ方向に曲がっている。
「死体は隠してあったのか?」スギサワはバインダーの資料を読みながら言った。
「埋められていたらしいけれど、墓穴は浅すぎたらしい。野生動物に掘り返されて、見つかったそう」
「見つけてくれ、と言わんばかりだな」
「そう言っているんだよ」
二人の視線が私を向く。
「こっちは短剣。こっちは薔薇。これだけ酷く痛めつけられているというのに、二つのタトゥーは無傷だ」私は手袋をはめた手で、比較的損傷の少ない皮膚を指した。「まるで、俺の捜している"タトゥーの男"みたいじゃあないか?」
「犯人に仕立て上げられた、って言いてえのか?」
私は肩をすくめる。「それが"ゼベタ・ゼペタ"の仕業なのか、〈教団〉の仕業なのかはわからない」
「どっちがやったのか、それがわかればもしかすると、本当の"タトゥーの男"に近づくんじゃないか?」
「どうかな。そもそも、俺が捜しているのは"タトゥーの男"なんかじゃあなかった」
「ああ?」
「俺が捜しているのは、"エンジェル"を殺した人間だ。いつの間にか、本質を見失っていたのかもしれない」私は、遺体に背を向け歩き出す。
「おい、ダン!」
「これ以上遺体を見ても、俺じゃあ何もわからない。あとは任せるよ」二人の冷たい視線が、背中に刺さるのを感じた。
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