ダウン・サイド
民間宇宙船"マンモスの墓場"は火星と月との境界にある宇宙領域セクターYに向かっていた。聖エデン教会に現れたゼペタ・ギャング団が向かったと思われる領域だ。
やつらの目的地と推定される暗礁地帯〈ヴィルグレーヴィア〉は、政府によって開発されたコロニーと違い、宇宙ゴミが積み重なって出来上がった星だ。かつて旧国際宇宙ステーションに向かったスペースシャトルから切り離されたロケットや廃棄されたシャトル、人工衛星の残骸など、さまざまなスペースデブリが一つの固まりとなったものを暗礁地帯と呼んでいる。自然にそうなったのか、誰かが人工的に寄せ集めたのかはわかっていない。太陽系連邦政府からは『星』とも『人間の居住地』とも認められておらず、それがさらなる不法投棄を加速させていた。
スペースデブリの固まりには、宇宙船の衝突事故が後を立たなかった。そのまま宇宙船の残骸も人間の遺体をも呑み込み、デブリは大きくなった。やがてデブリの島に人間が住み着くようになり、住み着いた人間たちの手によって環境が整えられた。宇宙空間を浮遊する〈ゴミの星〉は〈ヴィルグレーヴィア〉という名前をつけれられた。それが生い立ちだ。
宇宙空間を無秩序に漂流する"暗礁地帯"へ向かう方法は二つだ。偶然に辿り着くか、〈ヴィルグレーヴィア〉の内部から位置情報を仕入れて向かうか。ギャヴィンが提案した捜し方は後者で〈ダウン・サイド〉を使用するというものだった。
太陽系インターネットワークには、『グレープ』と異なる通信プロトコルを使用する拡張プラットフォーム『メタフォース』というものが存在する。そのメタフォースを使った仮想現実、電脳空間が〈ダウン・サイド〉だ。
〈ダウン・サイド〉には、現実世界と同じような世界が広がっている。惑星やコロニーの位置や軌道も、現実世界と同じように動き、地上の街の造りもほとんどが現実世界と同じだ。
〈ダウン・サイド〉には、専用のアバター『ダイヴァー』を使って入る。メタフォースが組み込まれたデバイスを使えば、太陽系のどこからでもアクセスできる。アクセスポイントは現実世界と同じ位置になるが、デバイスにショートカットをダウンロードしていれば、ものの数秒でどこへだっていける。火星から地球に行くことも、木星に行くことも。
ダイヴァーの作成には、現実世界のような個人情報は必要なく、コズミックフォンやPCさえあればいい。メタフォース・ゴーグルやヘルメットを併用すれば、オープン・ワールドのゲーム世界に入り込んだようなリアルを体現できる。
注意点は一つのデバイスでは一つのアバターしか作ることはできないということ。大抵の人間は、コズミックフォンとPCなど、所有する電子機器を同期している場合が多い。同期する複数台のデバイスは同一と見なされ、アバターは共有される。SNSのように幾つものアカウントを持つことはできないような仕組みになっていた。また、プリペイド式のデバイスにはメタフォースのプラットフォームは組み込まれていない。使い捨てのアカウントを持つことは難しかった。ダイヴァーはまさに、電脳世界〈ダウン・サイド〉における個人の分身なのだ。
〈ダウン・サイド〉では、オンラインゲームや買い物など有料のコンテンツが豊富だ。その全ては、『ソリドゥス』という仮想通貨で支払われる。専用の電子取引所から現実世界の現金を入金したり、電子マネーやクレジットカードから送金することで、ソリドゥスを購入する。ゲーム内マネーを購入するようなイメージだ。
現状の暗号資産の中では比較的信頼度が高いのがソリドゥスの特徴だ。ダイヴァー経由でクレジットカード番号や銀行口座の情報が漏洩したという事例は訊いたことがない。
つまりは、ダイヴァーはソリドゥスを保管するウォレットと"住所"の役割を担うIPアドレスを有しているというわけだ。
本人の許可なく電脳世界のダイヴァーを特定することはほとんど不可能だ。同様に、ダイヴァーの個人情報から、現実世界の個人を特定することも。これは、メタフォースのプラットフォームが組み込まれたデバイスをハッキングすることが現状では不可能だからなのだという。それ故に不正出金等のトラブルは起きていないらしい。私にはその仕組みはさっぱりわからないが。
が、特定という点に関してだけいえば、百パーセント不可能ではない。条件が整えばできないこともない。例えば、個人のデバイス使用時間と位置情報、電脳世界へのアクセス時間など、類似点の履歴を洗えばアカウントは絞り込める。あるいは、現実世界のパスポートIDを管理する外務省の人間が、同じデバイスからのソリドゥスの出入金を確認できたとすれば、ダイヴァーのIPアドレスを特定することができる。もっとも、そのどれもが違法だが。
"キャットハウス"はアンジェラ・ロメロのダイヴァー・アカウントを特定した。彼––––あるいは彼女––––は断定はできないと言っていたが、ほぼ間違いなく"ロイ"は"エンジェル"だろう。
だが、それがわかったところで私にはどうすることもできない。現実世界の人間が死んでいる以上、ダイヴァーと接触することはできないし、私の技術ではダイヴァーの行動を事細かに調べ上げることはできない。アンジェラ・ロメロの殺害について有力な情報は得られないだろう。死人の魂が電脳世界にでも残っていない限りは。
私がするべきは、ギャヴィンから入手したダイヴァーIPを追うことだ。〈ダウン・サイド〉からの追跡が、現実世界の"敵"を追い詰めることに繋がる。
「やつらのダイヴァーIPを特定できたのはわかったがよ、どうやって接触するんだ?」ファナナは"マンモス"のメインルールの戦略テーブルに脚を載せて言った。「IPがわかっただけじゃ〈ダウン・サイド〉のどこに当該のダイヴァーが居るのかもわからないし、現実世界のアクセスポイントだってわからないはずだろう? メールアドレスを特定しただけっていうようなもんだろ」
「メールアドレスがわかれば、メールが送れるじゃあないか」私はラップトップを操作しながら答えた。
「ハイ! 初めまして。あんた、今どこにいるんだい? ってか? 俺なら無視するね」
「ショートカットを作ってホームゾーンに入るんだよ」
メタフォースのプラットフォームには、ホームゾーンというパーソナル・スペースがあった。現実世界の人間と電脳世界のダイヴァーを繋ぐ場所であり〈ダウン・サイド〉におけるダイヴァーの家と呼べる空間だ。ダイヴァーの見た目や服装を変更したり、〈ダウン・サイド〉で使用する乗り物を保管しておくことができる。また、ホームゾーンそのものを拡張したり、利用者の好みにカスタマイズすることも可能だ。もちろん、ソリドゥスはかかるが。
さらに、ホームゾーンにはショートカットという電脳空間におけるワープ・ポイントを設けることができた。ショートカットには、一時的な短期ショートカットと半永久的な中長期的なショートカットがある。一般的には、ダイヴァーたちで賑わう公共施設への一方通行のワープ・ホールを中長期的に設けておく。
短期ショートカットは、ダイヴァー同士の了承の下、互いのホームゾーンを繋ぐ目的で作られる。ゲームコンテンツなど一定の目的や時間経過により自動的に消滅するショートカットだ。
これらショートカットの作成時に必要になるのが、ダイヴァーのIPアドレスだ。
「ホームゾーン内なら、相手ダイヴァーのログイン地点を閲覧できる。地上からのログインは惑星単位までしか表示できない。火星でログインすれば、火星のどこに居ようが、火星、とだけ表示される。だが、宇宙空間でのログインの場合には、おおよその座標が表示される。万が一宇宙空間で遭難した場合、〈ダウン・サイド〉で救助要請を行えるように、っていうのが建前らしい。本音の方は知らないが」
「つまり、セクターYでのやつらのログイン地点がわかるってわけだな?」リーランドは耳に挟んでいた両切りの紙煙草を咥えた。「わしはその座標を追っていけばいい」
「だから、どうやって連中を誘うんだ?」ファナナは自分のラップトップをたちあげた。
「ギャンブルだよ。セクターYの航海は退屈だろうからね。乗ってくるさ」私はラップトップをスリープモードにすると、メインルームのコクーンに入った。
正式名称は、ダイヴァー・コクーン。〈ダウン・サイド〉に"潜る"際に使用する卵型のマシンだ。内部には一人用の座席があり、メタフォースプラットフォームのデバイスを接続することで、ダイヴァーとなる。文字通り、電脳世界へダイヴするための機械だ。脳波によりダイヴァーと感覚を共有するため、コズミックフォンやPCよりも精密操作ができ、電脳世界を堪能できる装置だった。
私はホームゾーンでダイヴァーの感覚を確かめた。概ね、現実世界と変わらない。
ダイヴァーには、IPアドレスの他、〈ダウン・サイド〉で呼び合うダイヴァーネームがあった("ロイ"というのがこれに当たる)。インターネットスレッドのハンドルネームのようなものだ。IPアドレスと違い、他人と同名でも登録でき、登録後も〈ダウン・サイド〉のあちこちに設置されている『姓名判断占いの店』で変更ができた。
私のダイヴァーネームは、"マルボロ"。ダイヴァーのデザインは犬をモチーフにした人型だ。宮﨑駿監督のアニメ映画『名探偵ホームズ』のキャラクターを意識して作成した。犬種はハスキーになってしまったが。
ダイヴァーのデザインは、私のように動物を人型にしたモノと、純粋に人間の形をしたモノとがある。なかには何をモチーフにしたのかまったくわからないような個性的なアバターも存在するが、原則として人型がベースとなっている。擬人化、とでもいうのだろうか。
〈ダウン・サイド〉では、『サイグラム』と呼ばれる通信ツールが使われている。コズミックウオッチやPCを使ってゲーム感覚でダイヴァーを操作する際には、そのほかの通信アプリと同様にアイコンをタップしたりキーボードやマウスで通信を行うことができる。コクーンによる脳波コントロールを使用する場合には、現実世界同様、電脳空間内でのデバイスを現実世界と同じように使用して通信する。電脳世界のアバターと一体化し、装備品を使用するのだ。なんだかややこしい話だが、電脳空間には電脳空間のコズミックフォンがあるし、PCがあるというわけだ。
〈ダウン・サイド〉では、それらはすべてサイバーアイテムと呼ばれている。私がダイヴァーに装備しているのは、サイバーウオッチ。使い方は、現実世界のコズミックウオッチと同じだ。
電脳世界の私は、ギャヴィンから仕入れたIPアドレスに文字チャットを送信した。
すると、早速、サイバーウオッチに通知が届いた。見ると、知らない相手だった。
「ショートカットを共有してほしい」
チャットの文面には、それだけが書かれていた。無視したが、すぐに次のチャットが来た。
「セイディ」
私は仕方なく、セイディ・マクファーレンにホームゾーンの期限付きショートカットとパスコードを送信した。
しばらくすると、ショートカットのワープポイントからウサギのダイヴァーが現れた。キャップを前後逆さまに被り、左耳が少し齧られている。オーバーサイズのTシャツにオーバーオール、足元はワークブーツという格好だった。
「バッグス。ウサギにぴったりのダイヴァーネームだね。あんた、アストラナードの機体名も"兎"じゃあなかったかい? そんなにウサギが好きだったとはね」電脳世界の私は言った。
「マルボロってのは、あたしが考えているものでいいのかしら? 古い男だね」ウサギのバッグスは生意気な目をしていたが、唾を吐くようなことはしなかった。聞こえてくる音声にも、掠れた響きはなかった。
ダイヴァーの音声は、地声を使うことも、ボイスチェンジャーでカスタマイズした好みの声色を使うこともできる。セイディは後者の声色を選択したようだ。そして、私も。
「俺のIPはファナナに訊いたのかい?」
バッグスはイエスと言う代わりに肩をすくめた。
「なんで来た?」
「なんで置いて行ったの?」バッグスは眉間に皺を寄せた。どことなく、現実世界のセイディの表情と重なって見えた。「セクターYまでゼペタを追うなら、あたしも誘うのが筋じゃあなくって?」
「旅行じゃあないんだ」
「あたしがあんたと旅行したいとでも?」
私はまだ、このキャップを逆さまに被った生意気なウサギとやりあうつもりだったが、邪魔が入った。サイグラムに音声チャットが届いたのだ。
私は唇に人差し指をあて、音声チャットに出た。
「マルボロさん?」甘ったるい女の声がした。だが、本物の女が喋っているわけではないことはわかっていた。
バッグスは唾でも吐くような表情をしていた。今回ばかりは、私も同じ気分だった。
「アリエルさんかい?」私は相手のダイヴァーネームを口にした。「チャットを見てくれたんだね?」
クスクス笑いが聞こえた。女の笑い声でも、男の笑い声でも耳障りだった。
「用件はチャットの通り」私は苛立ちを抑えながら言った。「宇宙遊泳で暇を持て余していてね。シューティングレースの相手をしてくれる仲間を集っている」
「セクターYで?」
「セクターYで。もちろん〈ダウン・サイド〉の、という意味だが」
「実は俺もセクターYにいてねえ」アリエルは相変わらず甘ったるい声だったが、口調は男のそれに変わっていた。「現実世界で、という意味だぜ? 宇宙にはもう飽き飽きしてるんだ。別の場所でなら受けてやってもいいぜ」
「別の場所、というと?」
「街中がいい。そうだな……サン・トゥアンヌなんてどうだ?」
「あんたが望むなら」
「望むなら、か。俺の望みはしょうもないレースじゃねえ。チーム戦のデスマッチだ。それでもやるか?」
「構わないよ。でも、俺の連れは一人しかいなくてね」
「二対二で構わねえよ」甘ったるい女の声が言う。「ショートカットを送る。準備を済ませたら"潜って"こい」
「わかった」
「一応確認だが、俺らが勝ったら百ソリドゥスって思ってていいんだよな?」
「ああ。一人、百ソリドゥス。賭けは有効だ。あんたが負けたら……わかっているな?」
クスクス笑いが聞こえ、音声チャットは切れた。
「聞こえていたね?」私はバッグスを向いた。「俺たちはチームで、やつらとやりあう。異論は?」
「ないよ」ウサギはキャップを被り直す仕草をした。
「訊くが、あんたシューティングの腕前は?」
「あんたより少し上さ」
「生意気なウサギだ」イヌの私は牙を見せて笑った。
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