エンジェルの寝床
セイディ・マクファーレンは駐機場で手巻き煙草を燻らせていた。両切りのリオネル。女が吸うには––––いや、男だろうが––––いささかヘビーな煙草だった。彼女が寄りかかるアストラナードは"兎の腎臓"。レーサーに相応しいスピード特化型のマシンだ。搭載武器も絞られている。プラズマブラスターを主砲に採用しているのも、軽量化を追求してのことだろう。
セイディは、私とファナナに気がつくと、煙草をコンクリートに放り、我々が追いつくのも待たずに歩き出した。
夜空の下、靴音だけが響く。星が奏でる音のように聞こえた。
アパートの前に着くと、セイディは持っていた合鍵でエントランスのオートロックを開けた。アパートは、以前私が下見をした建物だった。それほど高級ではなく、むしろ安価な部類のアパートだ。正面エントランスにオートロックと防犯カメラはあったが、エントランスに入らず、外壁を登ることも不可能ではなさそうに見えた。つまり、その気になれば忍び込める。
アンジェラ・ロメロのアパートは三階だった。左隣の部屋には『タナカ』と書かれた表札があったが、右隣には何もなかった。部屋から音が聞こえるようなことはなかったが、玄関の具合から、空き家ではなさそうだった。
私はセイディ、ファナナに続き、アンジェラの部屋に入った。
部屋には、これといった特徴はなかった。流行りの俳優のポスター、手頃な価格で流行に乗った家具、コミック、雑誌、化粧品。コート類はハンガーにかけられ、埃かぶっていた。部屋着や下着は脱ぎ散らかされた状態のものと畳まれたものが残っていた。
私は手袋をつけ、部屋の中を見て回り、アンジェラの衣服に触れた。
「仮にアンジェラが自殺したとするなら、衣服は畳む? それとも、脱ぎ散らかしたままか?」
セイディは今にも唾を吐き出しそうな顔で言った。「驚いた。まだ自殺って言葉が出てくるとはね」
「疑っているわけじゃあない。もしもこの部屋の窓から飛び降りたんだとしたら、その線も考えられるのかもしれないが、彼女が無惨に殺されたことに疑いの余地はない」
セイディは唾を吐くのを堪えるように険しい顔で続きを待った。
「俺はアンジェラ・ロメロという女性のことをほとんど知らない。彼女を知る人間に話を訊いたが、それはあくまで"エンジェル"という女の話だ。それがこの部屋に住むアンジェラ・ロメロと必ずしも一致するとは限らない。男好きの"エンジェル"は、いつも小綺麗に小洒落ていて、洗濯物を畳む人間なのかもしれない。アンジェラ・ロメロは、取り込んだ洗濯物をクローゼットにはしまわずに、そのまま着る人間なのかもしれない。あるいは、その逆か。いずれにせよ、俺にはわからない。きっと、この衣服を畳んだ人間も」
「どういうこと?」
私は畳まれたロングシャツをソファの上に広げた。「多分、アンジェラはロングシャツを畳んだりはしない。クローゼットの中に、同じような大きさのシャツが掛かっている。彼女はきっと、この手のシャツはハンガーに掛けるタイプだ。ほら、こうやってた畳むと、シワができるからね。これだけ畳むっていうのは妙だ。それに畳み方もおかしい気がする。まるで女性ものの服を初めて畳んだみたいなやり方だ」
「彼女のヒモが畳んでやったのかもしれない」ファナナが言った。「ちょっとくらい彼女の家事を負担しようという気になって、一つ畳んで、諦めたのかもしれない」
「あり得るね。でも、その割には男の持ち物が見当たらない。彼女を殺して逃げたから? それなのに服は畳む?」
「順序が逆だったんじゃあないか? 殺してから畳んだんじゃあなくて、畳んだあと、殺意が芽生え、殺した」ファナナは短い髪をかく。「わからんな。服がそれほど重要か?」
「さあね。俺は思いついた疑問を口にしているだけだよ」私はセイディに向き直った。「俺は、アンジェラにはヒモなんかいなかったんじゃあないかと思う」
「……根拠は?」
「イメージに合わない。男を連れ込んだことくらいはあったのかもしれない。でも、一夜限りの関係がほとんどだったんじゃあないかな。この部屋に住み着いていた男はいない。会うのは、男の家かホテルか。それがほとんどだったんじゃあないか? ここには男のにおいがしない」
「においって、ここが空き家になってどれだけの時間が経っていると?」セイディは噛み煙草を口に放った。
「目が悪い分、鼻がいいのさ」私は室内を見渡した。「もう少し調べてもいいかな?」
「好きなだけどうぞ」セイディはハンカチに唾を吐いた。
私は部屋の中の違和感を探した。アンジェラのイメージと合わないもの。それこそが、彼女を殺した犯人への手がかりだと淡い願いを込めながら。見つかったのは、一つだけだった。
「カセットテープとレコーダー。こんなものがまだ存在するとはね」私はウオークマンのボタンを押して音楽を再生した。ピアノの音が聞こえてくる。
「これ……アンジーが好きだった曲……ビル・エバンス?」
「ビリー・ジョエル。ピアノマン」答えたのはファナナだった。彼も、私と同じビリー・ジョエル愛好家の一人だ。いや、私たちと。
私は引き出しを開けてカセットテープに書かれた手書きの文字を読んだ。「ビリー・ジョエル、マイルス・デイビス。ビル・エバンスもあるね。みんな彼女の趣味かい?」
「ええ」肯定するセイディの声は、少しだけ湿っていた。
「そうか。じゃあ、これは手がかりではなさそうだな」
不意に、何かが私の鼻を刺した。どこかで嗅いだことのあるにおいだ。特徴的なにおいだが、それでいてありふれたにおいでもある。結局、何が放つにおいなのかはわからなかったが。
「このテープ。あたしがもらってもいいと思う?」セイディはハスキーボイスをさらにしわくちゃにした声で言った。
「君にはその権利があると思う」私はカセットテープが入っていたプラスチックの箱の埃とゴミを払い、セイディに渡した。
これ以上の家捜しは無意味と判断し、私たちはアンジェラのアパートを後にした。
煙草を燻らせ、夜の通りを駐船場に向かって歩いた。快晴、とは言えなかったが、月にかかる薄い雲と隙間から見える星明かりは、悪いものではなかった。
「これからどうする?」セイディから少し後ろに少し離れた場所で、ファナナは言った。
「ラビットホープに戻るよ」
「ヴィオレッタのダウンタウンではなく?」
「ああ。いずれはパラディーノにたどり着くことになるんだとは思う。でも、まずはゼペタから攻めてみたい」
「攻めるって、やつらのアジトはわかっているのか? おまえの空手と銃の腕は認めていないわけじゃあないが、一人で乗り込むってのは無謀すぎると思うね」
「うずうずしてきたのかい?」私は小さく笑った。「やつらのアジトはわからない。だから、乗り込むこともないよ。釣りをしようと思ってね」
「さっき言ってた、デコイだな?」
「ああ。俺が餌になって、ゼペタを誘き寄せる。ゼペタ・ギャングを嗅ぎ回っている人間がいると知れたら、やつらはその人間を捕まえようとする。敵は向こうからやってくるってわけさ。だからやつらのホームタウン、ラビットホープなんだ」
「それを一人で乗り込むって言うんだよ」ファナナは太い首の骨を鳴らした。「手伝おうか?」
「その時がくればね。でも、あんたは釣りには不向きだ」私はファナナの全身に視線を走らせた。二メートルを超える長身に、筋骨隆々の肉体、薄っすらと傷の残る彫りの深い顔。「控えめに言っても、あんたの見た目は威圧的だ。武闘派がすぎる。そんな強そうな男を従えてたんじゃあ、敵は寄ってこない」
「褒めるんじゃあねえよ。気持ち悪い」
「めでたい耳だ」
私たちは声を出して笑った。
街頭の下で、振り返ったセイディが唾を吐くのが見えた。
「簡単にゼペダ・ゼペタにたどり着ければいいが、どうせ釣れるのは下っ端のヌケサクだろう。その先のことは未知数だ。すぐに、あんたが必要になるかもしれない。備えておいてくれ」
ファナナは返事をする代わりに口元を緩めた。
「それから、リーランドの爺さんにも連絡を。あんたの口から、この件について伝えておいてほしい」
「それは構わんが、爺さんへの報酬はどうするつもりなんだ?」
「ゼペダ・ゼペタが見つかれば、どうとでもなるさ」
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